「学力」て何だろう ―― 中間期末試験問題画一化を主張する 橋下 徹 の貧困な学問観

〔第74回〕
  また、橋下徹が変なことを言い出したようだ。 YAHOO!ニュースを見ていると、

共通の中間・期末試験を 橋下市長、市教育委員に提案
産経新聞 1月10日(火)15時24分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120110-00000113-san-soci
 大阪市の橋下徹市長は10日、2月議会で市長提案を目指す「教育基本条例案」などをめぐり、市教委の委員6人と市役所内で直接討論。議論がかみ合わずすれ違いとなる場面も目立った。討論の中で橋下市長は、学力の学校間格差を解消するため、現在は市内の学校ごとに個別に作成している中間、期末試験の問題を統一化することの検討を教育委員側に提案した。
 討論で橋下市長は、教育委員が従来、市長との意見交換や市民との意見交換をしてこなかったことを問題視し、「これが形骸化の最たる例。これで、どうやって保護者の感覚を感じるのか。保護者の感覚を教育委員に注入するのが、条例案の肝の部分だ」と詰め寄った。さらに「教育委員が設定している教育目標の、正当性の根拠は何か」と質問を投げかけた。
 委員側は「クラスをみれば、子供の様子は分かる。そこは評価してほしい」「市民の意見も間接的に頂戴し、生かしている。市民の期待や要望に外れてはいない」などと反論した。
 また、条例案では最低評価を2回連続で受けた教員を分限免職の対象とするとしていることについても、委員側は「排除や性悪説の仕組みは先生のモチベーションを下げる」と反論。橋下市長も「では、具体的に(最低評価の)D評価の教員をどうするのか」と再反論するなど、意見のすれ違いもみられた。
 さらに、橋下市長は教育基本条例について「教育目標を知事が設定して責任を持つ部分は政治マター。この部分は条例から切り離す」と発言。府教育委員らの理解を得やすくするため、首長による教育設定の部分を盛り込んだ条例と、学校のマネジメント面を定める条例の2条例に分割する考えもあると説明した。

  という記事があった。 ・・・・なんだかなあ~あ・・・・。
  中間・期末試験があるのは中学校と高校だが、「公立」の学校は、高校は多くが「府立」で、大阪市長の立場で発言するということは、「大阪市立」である中学校の方だろう。
  まず、問題として、
1.中間・期末試験の問題を統一化すると「学力の学校間格差」はなくなるか、という問題。
2.根源的な問題として、「学力」て何だ? という問題。
3.中間・期末試験の問題を統一化することで、「学力」は「客観的」に「測定」できるのか、という問題。
4.もしも、「学力」を「客観的」に「測定」できたとすると、それは、生徒にとって、社会にとってプラスになるのか? 中間・期末試験を「統一化」することによって失われるものはないのか? という問題。
これらを考える。


1.中間・期末試験の問題を統一化すると「学力の学校間格差」はなくなるか
  公立中学校は、各地域ごとに、その地域に住んでいる市民の子供が行く。 学識・学力、あるいは、「学歴」が関係することの多い職業についている親は、子供を進学させよう、できるだけ「いい学校」に行かそうと考える傾向が強く、又、親が高学歴の親である場合は、親が学習する姿勢を見て、子供も学習するようになるということもあり、親が学識・学力、あるいは、「学歴」のある親の方が、全般的には、子供が学習し、進学することに理解がある場合が多いので、学識・学力・「学歴」の関係する度合いの高い職業の親が多く住んでいる地域、学識・学力・「学歴」の高い親が多く住んでいる地域の方が、全般的には、子供の「学力」も高くなったとしておかしなことではない。
  中間・期末試験の問題が各学校ごとに異なっているか、同じであるかにかかわらず、この傾向は変わらないでしょう。 親だけで子供の人生がすべて決まるわけではないけれども、東大・京大を卒業した親の子供100人と最終学歴中卒の親の子供100人を比較すれば、申し訳ないけれども、やっぱり、東大・京大を卒業した親の子供100人の方が、おそらく、学校の試験の成績も、その集団の平均で見るならば、良いであろうし、そういう親が多く住んでいる地域の中学校と逆の地域の中学校では、結果として「学力」に差が出る、ということは、実際問題としてあっておかしなことではない。 試験の問題が学校ごとに違っても「統一化」しても、これは、そう変わらないと思いますよ。


2. 「学力」て何だ?
   しかし、「学力の学校間格差を解消するため」と簡単に言うけれども、そもそも、「学力」て何だ? 「学力」て何か簡単に言えますか?
   私は橋下徹と同じ大阪府立北野高校を橋下より10年くらい前に卒業した。 北野高校の時、「通知簿」には、各学期ごとには、1学期・2学期は中間試験・期末試験の成績をたして2で割った点数が記入され、学年ごとに、1~5の成績が記載された。2以上が合格で5が一番良く、1は不合格、1が2つ以上あると進級できない。 私は、現代国語の成績が、1年の時は3、2年の時は5、3年の時にはまた3であった。 卒業後、何の因果か2浪して、それでも東大に合格することができなかったが、2浪目の時には、自分の科目の中では国語の成績が一番良かった。共通一次試験では、2つ間違えただけで200点満点で187点、それも、後でよく見ると、不注意な失点で、満点とって良かったようなものだった。 東大の試験においても、国語に関しては、模擬試験でも良かったし、本番の試験でも、受験生の中でも、あるいは、東大の合格者の集団と比較しても良い方の成績であったと思う。 私の高校3年間と浪人2年間の計5年間における現代国語の「学力」は、2年の時の5と2浪の時の東大受験生の集団においてもドル箱科目(他の受験生と比較して、点数を稼げる方の科目)であった成績の方か、それとも、1年と3年の時の3の方か、どちらが私の現代国語の「学力」であったということになるだろうか。 高校の3年間で、1年・3年が同じ3で、2年が異なって5であったたことには理由がある。 1年と3年は現代国語の担当がS教諭で、2年の現代国語はU教諭であり、古文は逆に1年・3年はU教諭で、2年はS教諭であった。 別にS教諭と喧嘩したわけでもないが、試験の出題形式がS教諭とU教諭では少々違ったようで、高校時代の私にとっては、U教諭の現代国語の問題の方が良い成績が取れて、S教諭の問題ではあまり良い成績が取れなかったのである。 私にとっては、1年・3年と2年で担当の教諭が異なったおかげで、両方の成績がつき、どちらとは言い切れないということがわかって良かったと思うが、もしも、中学校においても、「試験の問題を統一化」することになると、試験問題によっても成績は変わるのに、「統一化」してしまうと、この私の高校時代の現代国語の成績であれば、良い方か悪い方かどちらかに「統一化」されてしまうことになるが、1年・3年の時の問題に「統一化」されると現代国語の「学力」の良くない生徒と認定され、2年の時の試験問題に「統一化」されると現代国語の「学力」がある生徒と認定されることになるのだろうか? それが良いだろうか?
   北野高校の3年の時の、学校が実施する模擬試験では、私は社会科(世界史・日本史)の成績が自分の科目の成績の中では一番良かった。 社会科に関しては(他の科目は別として)、入学試験で受験した世界史・日本史にしても、入学試験にない地理Aも倫理社会も、北野高校の生徒の集団の中でも成績は良い方だったが、東大の試験(2次試験)の論文形式の社会科(世界史・日本史を選択)には苦労した。自分なりにいろいろやったけれども、2浪目も東大の試験(2次試験)においては、なんとか書いたけれども、あまり良い成績は取れなかったのではないかと思う。私が受験したのは、今となっては30年も前のことなので、今は制度や出題傾向が変わっているところがあるかもしれないが、柴田孝之の『東京大学機械的合格法』(日本実業出版社)を見ると、柴田は、東大の論文形式の社会の試験については、実際のところ、多くの受験生ができないと述べており、そうかもしれない。  私の高校3年間と浪人期間の社会(世界史・日本史)の「学力」は、5がついた高校の時の成績、浪人中も「一般的学力試験形式の模擬試験」(東大模試とか京大模試というものではなく、「全国統一模試」といったような名称の、特定の大学の試験の形式をとらない模擬試験)では比較的良い成績を取れた時の成績の方か、けっこう苦労も工夫もしたけれども、あまり良い答案は書けなかった(と思う)東大の論文形式の方の試験の成績の方か、どちらか? 

  ≪ 人間にはいろいろな型(タイプ)がある。おおまかにいって科学にたけている型も、芸術に長じている型もある。また、ひとつの学問、たとえば、数学のなかでも、ポアンカレのいうように幾何的なタイプと解析的なタイプがあり、それらは質的にちがっている。このように質的に多様な人間の知能を一直線上にならべて序列化することがいかに乱暴なことであるかは明らかであろう。 たとえば、シェークスピアとニュートンの知能は比較できるだろうか。 ところが、この二人に知能テストを受けさせて、知能指数を算出すれば、それができることになるのだから、なんともふしぎなことである。
    数は序列をもっていると同時に、たし算ができるところがくせものである。何かを数値化すると、人間はそれをたしてみたくなる。知能テストで迷路や点図形などの得点数をならべて書いておくだけだったら、まだいい。しかし、それでは満足できず、それらをたしてみたとしたら、いったいそれは何を表わしているのだろうか。たし算は同質のものどうしにかぎるというのは計算の初歩的な原則である。たとえば、身長と体重をたしてはいけないのだ。それは異質なものだからである。 ところが、ここではそういうたし算がへいきで行われている。・・≫
〔遠山 啓(とおやま ひらく)『競争原理を超えて』(1976.1.31.太郎次郎社)〕

   遠山啓の『競争原理を超えて』という本は、頂点の方の大学の出身者はケシカラン、人間は底辺の方の大学の出身者こそすぐれているんだ、と言いたいらしい人にとっての聖書的存在の本で、私は、この本の中に書かれていることは部分的にはなるほどと思えるものが少なくないけれども、一方で、日本の小学校から大学まででやっていることがそんなに有害無益かというと、そうではないと思っているし、小学校から高校まで真面目に一生懸命勉強して「一流大学」に行った人間、行こうとして努力している人間が、なぜ、そこまで悪者扱いされなければならないんだ、小学校から高校まで真面目に努力して勉強して「一流大学」に行く人間が悪者扱いされて、小学校から高校までろくすっぽ勉強せずに私立金権医学部に裏口入学するヤツが正義なのか? 悪徳医者屋が患者を薬愚けにして蓄えこんだカネを使って私立金権医学部に裏口入学するドバカ息子が「庶民」なのか? 違うだろうが!   とも思い、この本の内容については、各論については賛成の部分があるけれども、総論としてはあまり賛成できないと思っています。
   各科目ごとに試験をするのはいいけれども、それを合計して合格・不合格を決めるのはおかしい、と遠山さんは言いたいらしいのですが、確かに、数学の成績と英語の成績を足す、社会科の成績と理科の成績をたし算するのは身長と体重をたし算するようなものでおかしい、・・・という面はあるかもしれませんが、そうはいっても、高校であれ、大学であれ、入学試験をおこなう場合、やはり、まるまるくじ引きで合否を決めるわけにもいかないのだから、「たし算」するのもやむをえないと思います。 但し、あくまで、仮に、その計算方法で算出した数値により、合否を入学試験の時において決めますよ、ということで、それ以外の時においてまで、全人格的に評価が決まるとかいうことではないのは当然で、そして、そこででた「学力」は絶対的なものとかではありません。
※遠山 啓(ひらく) については、
「ウィキペディア―遠山 啓」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E5%95%93 他参照。
※遠山 啓(ひらく)は、学問は、本来、他人との競争からおこなわれるべきものではなく、学校と受験において、競争がおこなわれることによって、その競争の「敗者」とともに「勝者」も決して良い結果となっていないのではないか、と問題点・弊害の方を指摘していますが、そこから、真面目に努力して「一流大学」に行って学習にした人間を攻撃するための道具としてこの本を使う人が多いのですが、それなら、カネさえ払えば誰でも行ける学校に行って卒業した人間はそんなにエライのか、というと、なんかそれも違うように思います。 学校でおこなっていることは、卒業後、職場ですぐに役立つものと、すぐに役立つのではなく、職場でしばらく経験を積んだ後に役立ってくるものがあると思いますが、しばらく経験を積んだ上で役立つケースについては、
1.森川 英正『日本経営史』(日経文庫) が、主として、経済学部・商学部・経営学部などを中心とした社会科学系学部を卒業した場合について、
2.末広 厳太郎『法学入門』(日本評論社) が、主として、法学部を卒業した場合について、
  いずれも、遠山信奉者がよく主張する 社会科学系学部は「卒業すると価値がなくなる」というようなことは決してなく、卒業してしばらくしてから役立ってくるもので価値があるということを述べています。 私も、遠山の指摘にはなるほど確かにという点が何か所もあるとは思うものの、遠山信奉者が主張するような小学校から大学まで、特に、大学の社会科学系の学部でおこなっているものは「卒業すると価値がなくなる」などということはなく、森川・末広両氏が述べているように、職場での経験を何年か経てこそ役立ってくると、実際に職場に勤務してみて思うようになりました。
  又、遠山のこの本には、< 「一流大学」さえ卒業すれば、たいしたことのない人でも苦労しなくても出世できる>みたいなことが書かれていますが、大学教授として、一生、大学という所で勤務した遠山啓は実際の民間企業などの職場を知らないのではないかと思います。 「世の中いろいろ、人生いろいろ、会社もいろいろ」であって、中にはそういう人もあるのかもしれませんが、私は、一応、「慶應義塾大学商学部卒」ですが、努力して苦労しても実績を残しても報いられずにしばしば悔しい思いをしています。 < 「一流大学」さえ卒業すればたいしたことのない人でも苦労せず出世していい人生を送れる >などというおとぎ話は、いったい、ど~こから出てきたのか、それは、一般の職場を知らない遠山啓の妄想と違うのかと思いますね。

   中学校を卒業して就職するのでなければ、高校の入学試験を受けることになるのですから、受けようと思う高校の入学試験の問題に対してどうなのかという「学力」は生徒は知りたいでしょうけれども、毎度毎度の中間試験・期末試験を画一化するならば、人間も画一化されていくおそれがあると思います。 高校入試を考えて、他の受験生と比較してどうなのかを知りたいという場合は、「中間・期末試験の問題を統一化」するのではなく、模擬試験として受験するようにした方が良いと思います。

   ≪戦争中、私たちは体力検定というものをさせられて、砂の袋をかついでなんメートル走れるかというようなことをやらされましたが、あれとおなじことを、こんどは、この人間は頭がどのくらいいいかということで国民全体に実施したがっているような感じさえします。国民全体にいわゆる背番号をつけていろんなことを統制しようという考えがあるそうですが、それに似た「脳力検定」ともいうべきことをやろうとしているのではないかとさえ思われます。・・・・≫
〔遠山 啓(とおやま ひらく)『競争原理を超えて』(1976.1.31.太郎次郎社)〕

   「中間・期末試験の統一化」などというものを行って、そこで計測された「学力」が「客観的」なものだなどと考えられるようになるならば、それは、≪砂の袋をかついでなんメートル走れるかというようなこと≫をやって、それで体力が計測されたと言っているのと同様のことを「学力」でやっているということに近づくと思います。


3.中間・期末試験の問題を統一化することで、「学力」は「客観的」に「測定」できるのか
   そもそも、「中間・期末試験の統一化」で「学力」は「客観的」に計測できるでしょうか。 
   まず、具体的な問題として、英語の英文解釈(英文和訳)とか英作文(和文英訳)の問題に対する答えの採点は誰がするのでしょう。 各学校の英語の先生がするのであれば、英文解釈とか英作文とかは、その先生によって採点基準は異なるのが普通です。
   あるいは、数学の証明問題などでは、部分点をどれだけつけるかの判断も採点する先生によって異なるのが普通ではありませんか。 試験問題が同じでも採点基準が異なれば、同程度の答案を書いていても点数は異なります。
   音楽の歌の試験とか、体育の球技の試験とかは、同じ内容の試験をしても、同じ基準で「計測」できますか?どうやって、評価のしかたを「統一化」するんですか?
   私は、小学校の6年の時、社会科(内容としては地理)の試験で、教科書には「ギリシヤ」と書かれていたものを「ギリシア」と書いた、か、もしくは、その逆であったかで、その時、教育実習にきていた先生(大阪教育大の学生)に×をつけられたことがあります。 入学試験の時には、できるだけ教科書の記述に沿った答え方をしておいた方が×をつけられにくいということはあるでしょうけれども、「ギリシヤ」と「ギリシア」は外国語を日本語の表記にする時にどちらを選んだかの問題で、本来はどちらも正解とするべきものです。「バグダッド」と「バグダード」もそうです。「コンスタンティノープル」を「コンスタンティノーブル」とすれば、それは間違いです。「コンスタンティノーブル」はコンスタンティヌス皇帝の都市(ポリス)から「コンスタンティノポリス」と名づけられたもので、「ポリス」は「ボリス」ではないからです。「ギリシア」と「ギリシヤ」はどちらでも良いが「コンスタンティノープル」は良くても「コンスタンティノーブル」はダメですが、こういったことをわかっていない先生も少なくないでしょう。採点する先生によっては、教科書が「ギリシア」と書いている以上は「ギリシヤ」と書いたものは間違いだと採点する人もいるのです。両方とも正解にする先生が採点した場合と教科書の用語でなければ×にする先生が採点した場合では同じ問題に同じ回答をしても点数は異なるのです。
   もうちょっと、高等な話ですと、私が高校の3年の時、岩波新書の金達寿(キムタルシュ)『朝鮮』という本があって、高校の3年の時に世界史の東洋史の分野の試験で、その本に書いてあった都市の表記を試験に書いたところ、それは教科書の表記とは異なるものであったので、試験では×をつけられたのですが、この本を世界史の先生のところに持って行って、ここにこう書かれているので私はこう書いたのですが、と言ったところ、「よく、勉強してるね。」と言われて○に訂正してもらったということがありました。 但し、中間試験・期末試験では、岩波新書の本を先生のところに持って行って・・・ということもできますが、入学試験ではそういうことはできないので、「試験に通る」という点からいけば、教科書の表記にしておいた方が良いでしょう。 しかし、岩波新書でもなんでも読んで、教科書と異なる表記をしたものを覚えてそれを書いた場合、間違いとするべきでしょうか。 試験問題が同じでも、そういう場合の対応が異なると、同じ回答でも点数は異なります。
   さらに言いますと、高校の時の日本史の授業でのお話です。 「元寇が失敗した理由は何か3つあげよ、という問題に対して、答えは何だと思いますか。」という話です。 戦前の「国史」では、「天皇陛下をはじめ、国をあげて神仏に祈ったため」とか「神国日本において神風が吹いた」とかいうのが正解だったらしいのですが、戦後の日本史では、「御家人が九州につめて応戦したこと」「元の侵略地での民衆の元に対する反抗があったこと」「台風が吹いたこと」の3つが「基本的には正解」のはずなのですが、これは正解か間違いかどちらかな? というのが、
「下痢」 てやつなんです。 
高麗から日本に向けて元の艦隊が出発しようとした時、その艦隊の艦長だか隊長だかに予定していたオッサンが下痢をしたらしいんです。 それで、代わりの人間を誰にするべえ、とか考えているうちに台風シーズンになってしまったというのです。 もしも、下痢してなければ、あるいは、正露丸があって飲んでいたならば、台風シーズンになる前に日本を責めることができて、台風で船が流されるなどということもなかった、というのです。 おそるべきは下痢!
それで、元寇が失敗した原因として、「下痢」と答えた場合、これは正解か間違いか? 私が教師なら二重丸をつけたい、というか、ざぶとん1枚あげたいところですが、採点する先生によって、○だったり×だったりしませんか?
  
  採点基準も「統一化」しようとして、すべて「マークシート方式」にすると良いでしょうか? そうなると記述式の問題は出せないことになります。 「親鸞」は選べても書けない生徒が増えるかもしれません。それがいいでしょうか?


4.もしも、「学力」を客観的に計測できたとして、客観的に計測するのが、生徒にとって、社会にとってプラスになるか?  中間・期末試験を「統一化」することによって失われるものはないのか?
  もう30年以上前、私が高校に入学した時には、大阪府立高校の入試は、「調査書」(内申書)の成績と入学試験の成績をミックスして合否が決まるというもので、内申書はすべての科目、入学試験は、数学・英語・国語・理科・社会の5科目でした。 内申書の成績は各科目1から10までで採点され、10の方が良い成績でしたが、1~10までそれぞれ、生徒の何パーセントと決まっている各中学校ごとの相対評価であるため、橋下が言っているように中学校に「学力の学校間格差」があることから、結果として、「学力」のレベルの高い中学校の出身者は、微妙なところで、「学力」のレベルの低い中学校の出身者と比べて、府立高校の入学試験の際に不利になるということはあったのです。 「中間・期末試験の問題を統一化」することで、その中学校の生徒の何パーセントとして1~10を採点するのではなく、「統一化」した試験問題の点数から1~10をつけることができることになる、ということが考えられます。 私が北野高校に入学した時、私自身は、北野高校のあった第一学区の中では比較的「学力」のレベルが高いという中学校の出身ではあったので、もしも、私が中学校を卒業した時、内申書の成績のつけ方を、各中学校ごとに相対評価で1~10をつけるのではなく、「中間・期末試験の問題を統一化」してその成績をもとに1~10をつけるということになっていたら、30年以上前の私はその時の制度よりも有利になったと思います。 しかし、10・9の人の多い中学校、1・2の生徒の多い中学校が誕生するのが良いでしょうか。 それなら、むしろ、大学入試のように、内申書の成績などほとんど関係なしにした方が良いかもしれません。 

  再度、遠山本から引用します。
≪ よく入学試験のやり方を改善するということをいいますが、私は改善できないと思います。少しは改善されるかもしれない。しかし、ひじょうによくなるということは考えられない。ある意味では、合理的になればなるほど、かえって都合が悪い。なぜかというと、それで落とされた人間はますますやりきれなくなる。合理的なやり方で落とされたといわれたら、救いようがないのです。
  たとえば、くじで落ちたとしたら、「おれは運が悪かった」ということになります。私は、入学試験をぜんぶくじにするのは極端だとしても、あるていどくじをいれたほうがいいと思います。くじでやってもおなじなんです。まえの日に読んでやっておいた問題が偶然でたりすると、うんとちがってしまうのです。落ちるか落ちないかの境目のところには同点がいっぱい集中していますから、十点いい点をとれば、もうそれで合格してしまう。ひじょうに運が作用しているのです。まぐれがないというふうに考えるのが、どだいおかしいのです。
  ひじょうに合理的だと思われるようなことで落ちると、「ほんとうにおれはだめなんだ」という感じになる。落ちた人間だけでなく、パスした人間にもよくない。「おれはひじょうに優秀だ」と思いこんでしまう。…≫
〔遠山 啓(とおやま ひらく)『競争原理を超えて』(1976.1.31.太郎次郎社)〕

  遠山が言っているように、入学試験というものは、ある程度は、「くじ」のような要素が残っていた方が、むしろ、良いのかもしれない。
  昔、『あしたのジョー』という漫画がありました。 プロボクシングの試合で、矢吹ジョーと対戦して、矢吹のパンチであごをくだかれて引退した ウルフ金串 という男が、やくざの用心棒に身を落とし、喫茶店で「もう1回、もう1回やれば、俺は必ず、矢吹の奴に勝てるんだ。くそう、もう1回やれば、必ず、勝てるんだ。」とつぶやく場面がありました。 試験でも、実際にどうかにかかわらず、「もう1回やれば・・・」という要素が残っていた方がいいと思います。
※『あしたのジョー』については、
「YouTube―あしたのジョーオープニング 」http://www.youtube.com/watch?v=hA1N37mvJeo 参照。
※ウルフ金串が、「もう一回やりゃ勝てるんだ」とつぶやく場面については、
「ニコニコ動画―ウルフ金串 vs ゴロマキ権藤」http://www.nicovideo.jp/watch/sm9883720 にテレビアニメーションの『あしたのジョー2』の場面が入っています。

  そんなに、「客観的」に優秀であるかないか、といったことを判定しない方が、評価するにしても、ある程度は「くじ」のような要素が残っていた方が、あるいは、うまくいった時もいかなかった時も、≪いくらかは「運」もあった≫という方がよいのではないかというように思います。

   昔、「女学校、女子大の『2番で卒業』はあてにならない」という話があったそうです。誰に聞いたかというと、誰であったか大学の先生から聞いたのです。 今は、大学の卒業は、あくまで「卒業」でしかないのですが、戦前の大学は、「何番で卒業」とはっきりと書いていたというのです。但し、それは、男性が行く大学のことで、女学校・女子大は、女性に「何番で卒業」として、成績が悪いことから「お嫁入りに差し支える」ことになっても良くないということで、戦前も「何番で」という表記はしなかったそうなのです。 それで、「1番で卒業」は、卒業式の時に「総代」で出る者が一番なのでわかるのですが、「2番」は、本人が勝手に言っているだけであり、実際に何番であったかはわからないというのです。戦前でも、女学校・女子大では「何番で」というのは公にしないというそういう配慮はあったらしいのです。
  中間・期末試験の成績にしても、1番とか2番・3番の人間は、はっきりと、「客観的に」評価して成績が出てもいいと思うのです。 しかし、下の方の成績の人間に、あなたは、はっきりと最低の成績ですよ、というような評価を出して良いのでしょうか? それが学校のやることですか? 学校というのは、成績の良い者にはさらに良くなるようにし、成績の良くない人にもそれよりも良くなるようにするものと違うのですか? 成績の良くない人には、あなたはダメなだめな人間なんだよ、よく自覚しなさい、と言うようなことをするのが好ましいですか?
  中学校においては、一度、二度、三度、成績の良くない時があったとしても、「客観的に」あなたはだめなだめな成績の人ですよ、などと評価するようなことはするべきではないと思うのです。

  高校の受験を考えれば、人と比較してどうなのかは考えないわけにはいかないでしょう。 しかし、だからといって、「中間・期末試験問題の統一化」などということをして、プラスになるでしょうか?

  学校て何する所でしょう。 教える所、学ぶ所ですよね。 「中間・期末試験の問題の統一化」などまでして、他校の人と比べる必要はないのと違いますか。

  なが~い時間をかけてもすばらしいものを作る芸術家型 と、てきぱきと一定限度以上のものを着実に規定の時間で作成する事務屋型・実務家型とはどちらがすぐれているのか、といっても、どちらと簡単に言えるものではないわけです。 試験の問題も、担当の先生によって多少違った方が、それによって良かったり悪かったりすることも多少はあるということで良いと思うのです。 なんか知らんけど、あの人の試験問題と相性が悪かったみたいだな・・ということも時としてあっていいと思うのです。
  橋下徹は元・弁護士だということですが、「あの裁判官、どこか転勤で他に行ってくれんかなあ」とか思ったことないでしょうかねえ? 弁護士やった人ならそういう経験もある方が普通じゃないかと思うのですがねえ。

  昔、「受験の国語 学燈」(学燈社)という月刊誌がありました。学燈社のホームページhttp://www.gakutousya.co.jp/contents/list/index.html を見ると、2009年春号で休刊となったと書かれています。残念です。 私が高校生の時、「受験の国語 学燈」は月刊誌で、毎号、郵送で応募する学力テスト と 懸賞作文とがついていました。 私は高校3年の時、作文に3回応募して、そのうち2回、佳作に選んでもらいました。 どんなもんじゃ~い! と思ったのですが、誰もほめてくれませんでした。 ところが、ローニンして行った大阪のY予備校では作文の試験というのが時々あって、その評価は良くありませんでした。自分としてはある程度以上良い文章を書いたつもりなのに、a, a',b,b'・・・といった評価では良い評価がされませんでした。それだけでなく、むかついたのは、作文の指導であるならば、文章の構成や展開のしかたなどについて指導するもので、そこで述べている内容が良いか悪いかを言うものではないと思うのですが、それを、こういう考え方はどうだとか「採点」と評してやるので、なんじゃ、これはあ、と思い、「『学燈』佳作入賞者に向かってなんじゃい」みたいな気持ちにもなりました。 同じクラスの人に、「作文の採点て、どういう基準でしているんだろう」と言ってみたところ、「ああ、俺、それ、作文は評価は見ないことにしてる。」と言われました。 そうか、そうするべきものだったんだ、と思いました。 「学燈」で懸賞作文で佳作に選んでもらったこともあって、「未来の作家」のような気持ちでしたから、教員資格も持っていない三流大学出の予備校のへぼ教師が何をえらそうに「作文」にかこつけて思想調査・思想統制みたいなことしとるんじゃいと思い、内容について文句つけられても、文句つける方が間違ってると思っていました。大学を卒業した後は、研究者になるか教員になるか、そうでなければ、新聞社にでも入って、文章を書くような仕事につきたいと思ったりしていたのが、結局、まったく違う仕事につくことになりましたが、自分では、「文才がある」と勝手に思っていたので、その意識が後まで続きました。(「文才がある」かどうかはともかく、それで、今もこんな文章を打ち込んでいます。) 今、思うと、高校生の時に「学燈」の懸賞作文に書いた文章は、たいした文章でもなかったようにも思うのですが、それでも、その時は、最高の文章を書いたつもりでした。 「学燈」で佳作に選んでもらったおかげもあって、私は、Y予備校で作文に変な論評をされてもめげませんでした。 もしも、逆だったらどうでしょう。 
  学 校は、その時に何を教えたか、学んだかも大事ですが、学問的に何かに興味を持つ、関心を持つというようにできれば、それは成功であり、逆に、学問的関心を奪うことになれば、それは失敗ということになるのではないでしょうか。 中学校くらいで、あなたはだめな人です、という評価をして、その結果、ああ、そうか、俺はだめな人間なんだなあ、そうか、そうか、と思ってしまって、学問的関心を持たなくなってしまったら、持たなくさせてしまったとしたら、その教育は正しいでしょうか。その学校は良い学校でしょうか。 

   私は「高校までエリート」だったので、小学校や中学校の試験では、少なくとも平均点を上回る成績は取っていたが、中学校の技術家庭で一度だけ、平均点を下回る無茶苦茶悪い成績を取ったことがある。 それはどういう経緯であったかというと、中学校の1年の時、技術家庭の先生が、接着するものによって使用するのに適する接着剤が異なるという話をして、何と何を接着する場合は何という接着剤が適している・・・といったものを一覧表として黒板に書かれたことがあり、それは技術家庭の教科書には載っていないもので、又、文研出版の『グリップ 技術家庭』にも載っていない話で、あくまで、その先生が親切で書かれたものだと思って、一覧表をうつして、今後、接着剤を使うことがあれば参考にさせてもらえば良いものと思って、中間試験用に覚えたりはしなかったのです。 それが試験に大量に出たのです。試験には出ないものと思って覚えていないものが出たのでボロボロでした。 試験に出すなら、一言くらい「中間試験にも出すよ」と言ってくれればいいのに、とも思いましたが、まあ、しかたがない。 もしも、「中間・期末試験の問題を統一化」するといったことがあれば、その時に出題されたような問題は出題されないでしょう。その方が良いか悪いかどちらでしょうか。 私は、教科書に載っていないものでも、その先生が、これは役に立つことだからと思われたのであれば、出題していいと思います。特に、技術家庭などは、中学校にはあっても普通科の高校にはなく、高校の入試にも入学試験問題としてはありませんし。 橋下は「中間・期末試験の問題の統一化」と言って、実際は、各学校の各教員が、その教員の判断で、これは理解しておいた方がよい、これは覚えておいた方がよいと考えて出題するということをやめさせようとしているということでしょうか。

   中学校から高校の進学でも、高校から大学の進学でも、どの学校に行ったからエライと決まるものではない、というのはそうでしょうけれども、しかし、本人がそこに行きたいと思って努力しているのであれば、周囲の大人は、できることなら行かせてあげたいと思うものではないでしょうか。 そういう際に、中学校から高校の受験でも、高校から大学の受験でも、経験者が、こうやった方が成果が出ると思うよ、それは、あまり成果につながらないと思うよ、といったことを言ってあげることができれば、その分だけ、合格する可能性が高くなり、それがあるかないかで合否が決まることもあります。 もしも、私が教員なら、できる限り協力してあげて、行きたい学校に行けるようにしてあげたい。そのためには、オシキセの「統一化」されたような問題ではなく、私が、生徒が受験する学校の問題の出題傾向も分析した上で、「傾向と対策」を考え、「試験に出る」内容を考慮して、中間・期末試験の問題も作成して出題し、入学試験にも役立たせたいと思う。 「統一化」した問題なんかではだめだと思います。
   
  
   そもそも、誰が、何の基準で、「統一化」するのでしょう。 

   毎度、橋下の言うことは理解に苦しむ・・・・・。

         (2012.1.16.)

   「朝日新聞」2012年1月16日(月)の1面に、≪大学入試センター(東京都)は15日、センター試験初日(14日)の地理歴史と公民で問題冊子の配布をめぐるトラブルが起きたのは全国58会場にのぼり、計約4500人の受験生に影響があったと発表した。運営側の不手際によるトラブルとしては1990年のセンター試験開始以来、最悪の数字となった。≫といった記事が載っている。 共通1次試験だのセンター試験だのというようなものをやるから、こういうミスが出た時にも大事になるんだ。 入学試験などというものは、各学校・各大学でやればいいんだ、と私は思うが。 「中間・期末試験の問題の統一化」などということをやると、そこでも、こういったミスがでた時に、「統一化」していない場合よりも大事になるということが考えられる。
   もっとも、「朝日新聞」1月16日の39面に、≪ 各地の受験生からは・・・「人生かかっている試験。想定外や間違いは許されない」(鹿児島)という声が上がっている。≫と書かれ、≪「人生かかってるのに」≫という見出しがついているが、 アホか! この程度のことでつぶれるような人生なら、さっさとつぶれてしまえ!  と私は思う。その鹿児島の受験生は、何か勘違いしているのではないかなと思うし、そんな文句を見出しに入れる朝日新聞の記者もどうかしていると思う。
        (2012.1.17.)


競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育
太郎次郎社エディタス
遠山 啓

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 競争原理を超えて―ひとりひとりを生かす教育 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック