橋下徹をどげんかせんといかん!~君が代問題。 内村鑑三の嘆き・ミルトン=マイヤーの憂い

〔第41回〕 前回、《 橋下 徹 こそ退陣せよ! 橋下 徹こそ処分されるべきである! 橋下 徹を冷温停止させろ! 》と題して、大阪府知事・橋下 徹が、大阪府内の公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例案が3日、府議会で成立させたことについて批判をおこないました。 今回、その内容を、もう少し深く述べます。

  内村鑑三(うちむら かんぞう)の「不敬事件」については、高校の「日本史」の教科書にも掲載されていることなので、多くの方が知っていることと思います。私が高校の時に使用した 井上光貞・笠原一男・児玉幸多他『詳説 日本史』(1977.山川出版社)より引用してみましょう。

≪ 日英同盟がむすばれても、ロシアの南下はその後もやまず、日露両国のあいだに衝突の危機がせまった。三国干渉以来、軍備の増強をおしすすめてきた政府は、すでに開戦のばあいを予想しはじめ、新聞・雑誌もさかんに開戦を主張し、ロシアにたいする国民の敵愾心(てきがいしん)をあおった。 キリスト教徒の内村鑑三(うちむら かんぞう)(1961~1930)や社会主義者の幸徳秋水・堺利彦らは非戦論・反戦論をとなえたが、世論の大勢は主戦論に動かされ、議会もいざ開戦となると、政府に同調して巨額の軍費を承認した。 ・・・・・・≫
≪ 内村はキリスト教の人道的立場から、戦争は人を殺す罪悪であるとして戦争を否認した。 幸徳・堺らは「平民新聞」を発刊し、社会主義の立場から戦争反対をとなえた。≫
≪ キリスト教は明治憲法によって信教の自由が認められると、その布教に力をいれ、布教のかたわら教育・社会福祉・廃娼運動などの幅のひろい活動をおこない、主として青年層に信徒をえた。 しかし、教育勅語の発布によって忠君愛国が強調されると、国家主義の立場にたつ井上哲次郎(1856~1944)らは、キリスト教が教育勅語の趣旨に反するとしてこれを攻撃した。仏教界からもキリスト教攻撃がおこなわれて、宗教界は混乱した。≫
≪ 1891年(明治24年)、第一高等中学校の講師内村鑑三は教育勅語に敬礼しなかったというので教壇を追われ、国家主義者や仏教徒はキリスト教をはげしく攻撃した。≫

  もっとも、内村鑑三が《 教育勅語に敬礼しなかった》というのは、厳密には正確ではないらしいのです。
山住 正巳(やまずみ まさみ)『教育勅語』(1980. 朝日選書)
によると、
≪ 教育勅語体制は、一言でいって、人権尊重の精神の獲得を妨げ、人間のもつ成長し発達する可能性の開花を抑えてしまうものであったとされる。・・・・
   たしかに第一回帝国議会招集の直前に教育勅語が発布されたのは、日本の歴史のなかで重大な意味をもっており、これについて丸山正男は日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい」(「超国家主義の論理と心理」1946年、『現代政治の思想と行動』所収)と書いている。  このように官民あげて勅語の普及をはかろうとしている時期に、勅語に対し批判的言動をとるとき、職を奪われることさえ起った。 その代表的な事件が勅語発布の翌1891年(明治24年)に起こった、いわゆる内村鑑三不敬事件であり、ここに、勅語体制を確立しようとしていた人たちの勅語に対する態度がよくあらわれていた。そして、これは信教の自由と関係し、教育史だけでなく日本キリスト教史上にも重要な事件であった。
  勅語発布の年の12月25日、第一高等中学校(第一高等学校の前身、東京大学教養学部の前身の一つ。以下「一高」と略す)で、天皇の署名した教育勅語の棒読式が行われた。このとき参列した同校の教員や生徒は、宸書(しんしょ)(明治天皇の署名)に拝礼したが、嘱託教員であった内村鑑三は、キリスト教徒としての良心から、他の人たちのように深く拝礼せず、ちょっと頭を下げただった。 内村のこの行動が、まもなく不敬であるとして、教師・生徒ばかりでなく、多くのジャーナリズムに避難され、一高を依願解嘱となったのである。これが経過のあらましである(この事件については小沢三郎『内村鑑三不敬事件』1961年、に詳しい)。
  内村が一高の嘱託教員になったのは、教育勅語発布の年の九月である。発布直後の11月3日の天長節祝賀式で校長木下広次(1851~1910)は、勅語を棒読した後、『校友会雑誌』(第1号、同年11月)によれば、「抑も此勅語は我国教育の基礎学制の大本にして決して学理学説と同一視すべきものにあらず若し之に違うものはこれを我国民といふべからず万一本校職員或は生徒にして之に違える行為あるときは校長素より寸毫も之を仮借せざるべし」と述べたという。
  木下は勅語を神聖で絶対的なものとし、これ以外に日本の教育の進むべき道はないと見て、これに対する批判を許さなかったのである。・・・・・・
  1月9日当日、校長は病気で休んだが、校長事務補助の久原躯弦(1855~1919)は校長の意を体してであろう、職員・生徒に宸書(しんしょ)への拝礼を命じたのである。
  内村の頭の下げ方を真っ先に問題にしたのは、同校の教師・生徒自身であり、もう一度『校友会雑誌』(三号、同年1月27日)を引くと、そこには、この勅語拝戴式について、「式場は倫理室なり、此室に於いて此の式を行ふ、日本の臣民たるもの誰か感泣せざらんや、独怪しむべし、本校教職員内村鑑三氏は敬礼を尽きず、此神聖なる式場を怪我セリ。」と記されている。
  この式場の様子について内村自身は、アメリカの友人ベル宛3月6日付の手紙に書いている。彼は、宸書(しんしょ)の前への拝礼を求められたが、「小生ハカヽル見知ラヌ儀式ニ応ズルノ用意ハ全然ナカリキ」と記している。しかも、拝礼の順は3番目であり、これについて考えている余裕はまったくなかったのである。
・・・・・・・ ≫ ということであったようです。

≪ 内村に、このような瞬間の判断をさせた力は、むろんキリスト者としての良心だが、もう少し立ち入ってみたい。そこで浮かび上がってくるのが、カーライルの『クロンウエル伝』である。・・・・ 
・・・彼(内村鑑三)は、勅語に礼拝低頭せよと命ぜられたときのことについて、「カーライルとコロムウェルとに心魂奪はれし其時の余は如何にしても余の良心の許可を得て此命令に服従することが出来なかった」(「読書余禄」1909年)と書いている。・・・・・ ≫
≪ ・・・内村につづいて、2月23日に木村駿吉が非職となったところに、問題の本質があらわれている。木村は、1月9日当日、欠席し、後に内村の行動を積極的に弁護した人である。内村に続く木村の非職は、勅語体制に反する者への圧力がいかに強かったかを示している。≫

≪ 日常生活におけるあらゆる喜びや楽しみをなげうって国家の危急に馳せ参じ、これに身を奉じなければならぬとする勅語の指針は、自由の精神とは大きくくいちがっていた。・・・・
   ・・・・思考力を働かせて真実を追求する構えを喪失させようとする動きが次第に強くなっていくのであり、それこそ教育勅語の確立過程であった。・・・・≫と山住正巳『教育勅語』(朝日選書)には述べられている。 
  親子や夫婦のあり方はどうあるべきかということを自ら考えて、あるべき態度をとろうとする精神的態度を抑圧し、こうあれと一方的に押しつける教育勅語の態度は、むしろ、倫理的態度・思考を奪い取るものであり、山住正巳氏と同様に私も考えます。

  夫婦は仲良くするべきだというのがどこが悪いか、親に孝行しろよおというのがどこが悪いのか、といったことを言う人がありますが、仲良くするべきではないというのではなく、そういうことを特定の人間が別の人間に考えを押しつけるのが間違っているのです。夫婦がどうあるべきかといったことは、それぞれの人間が自分で考えるべきことであって、人に考えを押しつけられるものではなく押しつけるものでもないのであり、教育勅語を復活させようなどと主張する人たちというのは、こういうあたりまえのことがわかっていない人間なのです。

  教育勅語というものは、天皇が作成して国民に押し付けるという性質のものであったのですが、内村鑑三を「不敬」だと非難した人たちというのは、「天皇が作成したもので、明治天皇の署名のあるもの」に対しての頭の下げ方が足らなかったと非難したのか、教育勅語の内容に対して、内村が頭を十分に下げなかったと非難したのかというと、よくわからずに非難していた人もいたかもしれませんが、基本的には前者でしょう。

  内村は、キリスト者としての精神とカーライルの『クロンウエル伝』に述べられているクロムウェルについての傾倒とから、天皇が作成して国民に押しつける天皇が署名した「教育勅語」というものへ「礼拝低頭せよ」という命令に服従することは倫理的に認められないと判断したようですが、 おわかりのように、「君が代への起立の要求」というものも、《 天皇の支配する世は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで永遠に》という内容の天皇の支配する世を肯定する歌への礼拝の一種としての起立の要求であり、キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒として、まともな人間であれば、とうてい肯定できるものではなく、又、キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒でなくても、まともな人間性の者であれば肯定できないものです。

  『旧約聖書・出エジプト記』には次のように書かれています。
≪ 神はこのすべての言葉を語って言われた。
 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 
 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代(せんだい)に至るであろう。≫(『出エジプト記』第20章1~6節、日本聖書協会口語訳)
この、≪刻んだ像を造ってはならない≫というのは、ヤハウェの像を刻んではならないという意味と解すのか、ヤハウェ以外の≪上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの≫像を刻んではならないと解すのかという問題がありますが、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書におけるエホバ以外のいかなるものをも礼拝してはならないとするのがキリスト教の考え方です。

 『コーラン』ではどのように書かれているかというと、
≪慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・・
 ・・・・(これは天啓の)書―その文句(まず)完全にととのえられ、次いで次第に解き分けられて行ったもの。あらゆることに通暁し、何事も見遁すことなきお方(アッラー)のお手もとから下されたもの。
  曰く、「汝らアッラー以外の何者も拝んではならぬぞ。 これ、わし(マホメット)が(アッラーの)もとから遣わされて来てこうして汝らに警告を与え、また喜びの(信者は天国に行けるという)音信(たより)を伝えてやっておるではないか。」・・・≫(『コーラン・中』井筒 俊彦訳 岩波文庫)と述べられているのです。

  当然、「教育勅語」や「君が代」に対して礼拝すること、礼拝の一種としての意味合いで起立することは許されないことであり、それを他人に強制する者・橋下徹とその同調者は、神を冒涜する者と言わざるをえません。
 
  橋下徹は、一応、元・弁護士で、今でも弁護士資格は持っているらしいのですが、日本国憲法においては、第20条において信教の自由が保障されており、民法第1条第3項において「権利の濫用は、これを許さない。」として、職場において、信教の自由を侵害するような業務命令は無効であり、信教の自由を侵害するような業務命令を拒否したことを理由とする解雇・その他の懲戒は「解雇権の濫用(らんよう)」「懲戒権の濫用(らんよう)」として無効である、ということくらいは理解できていなければならないはずであり、この程度のことも理解できていない人間が弁護士になるべきではないのです。 それよりも、君が代に対して、礼拝の一種として起立するというのは、それは、まず、教職員の業務ではないのであり、業務でないことに対して命令される理由もなければ、命令する正当性もないのです。

  もっとも、「クリスチャン」にも、いろいろな人がいます。私がかつて行ったことのある大阪府の「キリスト教系」だというY予備校には、「主事」という肩書で、教員でもなく事務員にしてはえらそうにしているという、なんか変な立場の人がいて、その「主事」のFさんが言ったのは、「聖書なんてものは、絶対に読んではいかん。聖書なんてものは、およそ、実行できるようなことは何一つ書いてないんだから。だから、その為に、教会というものがあって、礼拝とか献金とかいうものがあるんだ。だから、聖書なんてものは絶対に読んではだめなんだ。聖書なんて読まなくても、日曜日に教会に行って礼拝出て献金すればそれでいいんだ。ぼくらは敬虔なクリスチャンとして洗礼を受けて教会に行って礼拝にでて献金を払ってしてるんだから、それでいいんだ。絶対に聖書なんてものは読んでは行かんし、聖書に書いてあることなんぞ、絶対に実行しようなどと考えてはいかん。」などと言っていました。 それなら、なんで、あんた、キリスト教の洗礼なんぞ受けるんだ? そんなこと思っているのなら、キリスト教の洗礼なんぞ受けなければいいじゃないの。「聖書に書いてあることなんぞ、絶対に実行しようなどと考えてはいかん。」とか「聖書なんぞ絶対に読んではいかん」などという信念を持っているのなら、何もキリスト教の洗礼を受ける必要はないのと違うのか? と思うのですが、ところが、《「聖書に書いてあることなんぞ、絶対に実行しようなどと考えてはいかん。」とか「聖書なんぞ絶対に読んではいかん。」などという信念を持っていながら、それでいて、なおかつ、「敬虔なクリスチャン」とひとから言われたい、「ぼくなんかは敬虔なクリスチャンだから」と自称したい症候群》の「患者」とでもいうような人が世の中にはいるのです。Fさんは典型的です。まあ、Y予備校の場合は、「キリスト教系の予備校」として、キリスト教の洗礼を受ければ、「聖書なんぞ絶対に読んではいかん」「聖書に書いてあることなんぞ、絶対に実行しようなどと考えてはいかん」などという信念を持っている人で人にそう説得してまわる人でも、「クリスチャン」として採用してもらえて職にありつけるということがあったようですが・・・。 そして、洗礼を受けて日曜ごとに教会に行って献金をする人のことを「敬虔なクリスチャン」だと思って尊敬する人もいるし、「敬虔なクリスチャン」として尊敬されたい尊敬されたいみたいな人もいるし・・・。 私なんかは、「敬虔なクリスチャン」でもないし、別に尊敬していらんけどね・・・。それで、まあ、Y予備校のFさんみたいな人なら、君が代に対する礼拝でも、教育勅語に対する礼拝でも、おちゃのこさいさい、内村鑑三なんてバカじゃねえのお・・みたいな調子でやるでしょうし、たとえ、ヤハウェ以外に対して礼拝しても、教会に行って献金さえすれば神は是とされる、「敬虔なクリスチャン」であると認定されると確信をもっているでしょうけれども、しかし、たとえ、キリスト教会で洗礼を受けていても、日曜ごとに「献金」していても、そういう人を実質的にキリスト者というべきかどうかは極めて疑問です。

  前回のブログ《橋下 徹 こそ退陣せよ! 橋下 徹こそ処分されるべきである! 橋下 徹を冷温停止させろ! 》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201106/article_1.html に対して、H・O様 と えまのん 様からコメントをいただきました。ありがとうございます。 H・O様からは、ほぼ肯定的なコメントで、えまのん 様からは、どちらかといえば批判的なコメントということなのでしょうか。 私のブログに対してのコメントは、肯定的なご意見も批判的なご意見・否定的なご意見もすべて歓迎いたします。 但し、批判に対しては、私の方でも、批判に対する批判をさせていただきます。 又、逆に、批判に対しての批判、反論を期待された場合でも、これを仕事にしているわけではないので、生活の為の仕事が多忙であったりして、批判に対する批判、反論、説明が遅くなる場合もありますし、他に述べたい問題がある場合に後回しになってしまう時もありますので、その点について、どうかご了承ください。

  それで、えまのん 様からのコメントで、≪ ローマ・カソリックの総本山であるバチカンは、地域の儀礼的慣習として、異教の儀式にカソリック信徒が儀礼的に参加したりすることは認めてたりします≫と書かれていますが、そういうことはあるのかもしれません。 私なども、建築屋の仕事をしていますと、地鎮祭とか上棟式とかに出席すると、二礼二拍手一礼したりしており、又、建築屋に勤めてきた者は柏手を打つのが上手くなる者が少なくありません。聖徳太子が大工その他の建築関係の職人、及び、建築関係勤務者の神様とされており 私の場合、建築の学習のつもりで、神社や寺に見学に足を運んできましたし、今後も行くと思います。 ヨーロッパのキリスト教の教会堂にも行きましたし、今後も行きたいと思っています。日本の寺に、欧米の白人の観光客が来ることは珍しくありません。その人たちの多くは宗教としてはキリスト教でしょう。 イスラム教には、アッラー以外への礼拝は厳しく禁じる一方で、「他の宗教に対する寛容がイスラムの教え」という考え方があったはずで、ユダヤ教徒やキリスト教徒であっても、経典の民として、聖書の教えを守って生活する者はイスラム教徒でなくても偉大であり、それ以外の宗教に対しても、他の宗教を尊重するべきであるというのがイスラム教の立場であって、他の宗教を冒涜しろなどという教えではないわけです。それで、「儀礼的に参加」と考えて良いのかどうか、あるいは、他の宗教、他の宗教的なものに対する「尊重」「敬意」と考えて良いのか、そうではなく、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教で禁じられている「礼拝」と考えるべきなのか、という判断を誰がするのかが問題なのです。 誰がするのかというと、それは、それぞれの人が自分で考えて判断するべきではずです。 自分で考えて、キリスト教徒が他の宗教に対して、「礼拝」ではなく「敬意」「尊重」としておこなっていると考えておこなうのであれば、それは良いと思います。 しかし、君が代に対する《「礼拝」の一種としての起立》は、本人が自分で判断するのではなく、本人の判断では起立すべきではないと考えているものを、強制的に起立させようとするものであり、橋下らは、起立しない人たちに「懲戒」を加えようとしているのです。 私は、本人が、自分で判断しておこなうのであれば、キリスト教徒がお寺に行って、本堂に「敬意」を表してきて良いと思いますし、(靖国神社以外の)神社に行って、やはり、「敬意」を表してきて良いと思っています。 しかし、他人に強制するべきではありません。 もしも、自分が信仰する宗教以外の施設に行ってはいけないということになると、建築を学ぶ者は、自分が信仰する施設以外の建築物を見学することはできないことになりますし、宗教施設であれば、単に構造力学だとかを学べばそれで建築を学んだことになるのではなく、その宗教に対して、ある程度以上、学んでこそ、その建築物について理解できることになると思いますし、宗教施設であれば、その宗教の信者でなくても見学させてもらって良いとは思いますが、しかし、宗教施設である以上、見学に際して、その宗教に対しての敬意・尊重の姿勢は必要であると思います。 そうした時に、キリスト教徒がお寺に見学に行って、まず、本堂に行ったとして、そこで手を合わせるのは、他の宗教に対する「敬意」「尊重」と考えるべきなのか、キリスト教において禁じられるヤハウェ以外に対する「礼拝」と考えるのか、そういったことを本人が良く考えて判断するべきであり、決して、他人に決められて強制されるべきものではなく、決して他人に強制することが許されて良いことではないはずなのです。 橋下徹らの問題は、他の宗教に対して、「敬意」「尊重」として、その宗教の信者に近い対処をして良いかどうかの問題ではなく、それを他人に強制することを許してよいかどうかの問題なのです。 

  私などは、戦後の「象徴天皇制」の時代で「戦後民主主義」と言われる時代に育った世代であり、天皇に対する崇拝の意識などはありません。 その一方、今の皇太子(浩の宮)に対しては、同年代として、一緒に育った世代であり、なかなか結婚できず、結婚できたと思ったら、また、うまくいかないことがでてきてという、そういった様子を見ると、「お互い、なかなかうまくいきませんなあ。」と親しみを感じたりもします。 しかし、それを、君が代だの教育勅語だのを引き出して、歴史を逆戻りさせようとするような動きをする者がでてくるならば、親しみの気持ちまでも踏みつぶされてしまうことになりそうです。

  君が代の強制が間違っているのは明らかですし、本人が望まない歌を歌わせても、それは歌でも音楽でもありません。 
  
  そして、もうひとつ。 もしも、橋下らが主張したがっているように、君が代に対して起立すべきものであったとしても、はたして、それを拒否したというくらいのことで、「懲戒」までしなければならないものか、何も「懲戒」までする必要はないことではないのか、という問題もあります。

  福沢諭吉が子供の頃、自宅で、なにげなしに、殿様が書いた書をまたいだことがあり、兄からひどく怒られたが、福沢諭吉は、実際に殿さまの顔を踏みつけにしたとでもいうのなら、それは良くないであろうけれども、単に殿さまが書いた書をまたいだという程度のことで、そこまで怒られなければならないものかと納得いかなかったといった話を、私は、小学生の頃、「世界の偉人伝」だかなんかそういうシリーズの本で読んだのを覚えています。
  実際、天皇の顔を踏みつけたとでもいうのなら、それは良くないでしょうし、天皇でなくても、人の顔を踏みつけるというのは良くないでしょうけれども、天皇が作成して署名したという「教育勅語」に対して頭を下げるのが人より低くなかったとか、天皇の支配する世が永遠に続くようにという君が代という歌に対して「礼拝」の一種という意味合いを持つ「起立」をおこなわなかったといったことで、その程度のことで懲戒までしなければならないものか、そういうことを言うのであれば、他に懲戒されなければならないような行為をおこなっている教員や公務員がいるのではないのか、といったことがあると思います。無闇に人を懲戒したがる橋下という男の精神は貧困と言わざるをえません。
  鳥取県の県会議員は十人程度で十分だとかいった暴言を吐いた橋下徹については、鳥取県と鳥取県民に対しての侮辱であり、そういう暴言は鳥取県民以外の日本国民としても不快感を覚えるものであり、なんらかのペナルティーが科されてもおかしくないはずであるが、橋下はおのれのことは棚に上げているのであろうか。 

  「宮崎県をどげんかせんといかん」といって宮崎県知事になっておきながら、まだ「宮崎県をどげんか」できたわけでもないのに都知事選挙に転出した男の場合は「ちょっと前までは単なるお笑い芸人でしかなかった」のと違って、橋下の場合は、「元・弁護士」「早稲田大学卒」「北野高校卒」という肩書がある為、「単なるお笑い芸人」よりは知的な思考能力を期待できるのではないかと思っている人もいるかもしれませんが、私は、橋下は「単なるお笑い芸人」と同程度かそれ以下の知能の人間だと思っています。イタリアの映画監督・ルキノ=ヴィスコンティは貴族の出でありながら大学でマルクス主義を学び、その結果、学んだものと自分の存在との間に矛盾が生じたといい、その為、ルキノ=ヴィスコンティの作品には、『山猫』であったり、『ロッコとその兄弟』(日本では『若者のすべて』)であったり、社会と人とのあり方を問うような作品が多く、「赤い貴族」と言われたといいます。 ルキノ=ヴィスコンティほででなくても、学問というものは、たとえ、どんなに保守的な分野のものであっても、それを真面目に突き詰めていくと、現在の社会のあり方とその学問の成果との間に「緊張関係」とでもいったものが発生するものであり、それが普通であり、そういった「緊張関係」を大事にするべきで、資本制の経済体制をとる場合でも社会主義の経済体制を取る場合でも、そういった「緊張関係」を生かすことのできる社会は民主主義の方向に近づく社会で、そういった「緊張関係」を無視するような社会はいずれの経済体制を取っても、それは民主主義の方向に近づいていないと考えるべきだと思います。 橋下には、そういった「緊張関係」を生じるだけの学識が感じ取れない。 私が卒業した北野高校は、元・大阪一中であり、歴史的に見れば相当の名門高校であるわけですが、進学成績については地盤沈下の続く学校であり、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で、<名門校であっても、落ち目の名門校の場合には、進学成績が落ち目になるだけの理由が存在する場合が多い>といった内容を述べていたように思いますが、北野高校にも、柴田が言うところの進学成績が落ち目になるだけの理由が存在したと考えるべきかもしれないと、私は卒業して何十年と経ってから思うようになったのですが、その一方で、新興の私立6年制受験校の場合には、入学試験の成績については、ある程度の成績を取ったのかもしれないけれども、その割に、高校までにおこなってきたことからくる認識・学識・知恵といったものが身についていない人が多く、北野高校のような「落ち目の名門校」の場合は、進学成績は低下したとしても、高校までにおこなっているものについての学識・知恵といったものについては、私立6年制受験校の出身の人に比べると身についている場合が多い、と自分と周囲の人を見て思ってきたのですが(あくまで「多い」という印象であって、人によって違います)、橋下の場合は、そういった北野高校、「落ち目の名門校」の出身者としての良い所が、まったく見られない。そして、「早稲田大学法学部卒」で「(元)弁護士」である割に、「法の精神」が身についていない。 そして、元・芸人だといっても、この男が何か「芸」をしたのを見たことあるか? 何もしてないよね。 バラエティー番組か何かで後ろの方で、「弁護士・橋下徹」という札を立ててもらって座っていて、もうひとつ気のきかないことを司会者から話を向けられてしていただけですよね。そうじゃなかったですか。こいつ、「そんなの関係ねえ」「オッパッピー」とかやってました? そういうレベルの低い自虐ネタすらやってなかったですよね。 北野高校出身者としての良い所などない、早稲田大学法学部卒・元弁護士としての法的良心もない、芸人として何か芸があるわけでもない。単に態度がデカイだけの男と違いますか? 「石原慎太郎を尊敬している」とか言っていたように思いますが、そういえば、石原慎太郎と似ているかもしれませんね。白痴なところと暴言好きなところ、それに、目立ちたがりなところ、ええかっこしいなところ、さらに、知事選に出ないと言っておきながら出るところ、とかが。

※ルキノ=ヴィスコンティ については、
「ウィキペディア――ルキノ・ヴィスコンティ」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3
「goo映画――ルキノ・ヴィスコンティ」 http://movie.goo.ne.jp/cast/c53497/ 他参照
 北野高等学校 については、
「ウィキペディア――大阪府立北野高等学校」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%8C%97%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
「大阪府府立北野高等学校」ホームページ http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/ 他参照

  アメリカ合衆国のユダヤ系アメリカ合衆国人のジャーナリスト・ミルトン=マイヤーが、第2次世界大戦の後、ドイツに行って、元・ナチ党員10人に、なぜ、ナチスに加入したのか、どいういう経緯でナチ党員となったのかを調べた『彼等は自由だと思っていた』(田中浩・金井和子訳 1983. 未来社)という本があります。 その中に、
≪ 教授仲間だった言語学者は、こういった。「・・・・・
「・・・・ニーメラー牧師は、(御自分についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私のような人間を代弁して、こう語られました。
 ナチ党員が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者でなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それは遅すぎた、と」
「その通りです」と私は言った。
・・・・・・≫(「第1部第13章 それは遅すぎた」) という文があります。
学校における《君が代に対する「礼拝」の一形式としての意味を持つ起立の強制》には、思考・信条の自由の侵害、信教の自由の侵害という性質があり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の信者がヤハウェ・エホバ・アッラー以外に対して「礼拝」して良いのか、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の信者以外であっても、自分が「礼拝」したいと思っている対象でないものに対して「礼拝の一形式としての意味を持つ起立」をするのを認めて良いのか、という問題がありますが、もしも、学校におけるものでなく、参加するかどうか自由な行事であるならば、本人が自分の良心に問うて、「儀礼的に参加」と考える、あるいは、他の宗教、他の宗教的なものに対する「尊重」「敬意」と考えて参加して良いと判断するということもありうるかもしれませんが、学校における《君が代に対する「礼拝」の一形式としての意味を持つ起立の強制》を認める場合は、それは、起立を拒否する人たち・起立を肯定しない人たちに対して「スト破り」の行為としての性格を持つようになってしまうということがあります。


  「宮崎県をどげんかせんといかん」と言って宮崎県知事になっておきながら、宮崎県がどげんかなったわけでもないのに、宮崎県を捨てて東京都知事選に転出した男は、落選して、肩書は元のお笑い芸人に戻ったようです。橋下徹も、「芸人としては芸人としての芸がない、弁護士としては特に優秀でもない」という本来の立場に戻っていただいた方が日本国民の為であると思います。 石原慎太郎もそうですが、橋下徹という男の評価は、もとより“バブル”であり、もともとたいした人間じゃないのです。 私が宅地建物取引主任者の試験を東京都で受験して合格し登録した時、東京都知事は青島幸男だった為、私が最初に取得した宅地建物取引主任者証には「東京都知事 青島幸男」と書かれていました。その時の大阪府知事は横山ノックで、横山ノックでなくて良かった・・と思ったものでした。大阪府民は、あんな単なるお笑い芸人のハゲ頭をよく府知事に選んだなあ、と大阪府出身者として情けなかったのですが、今回、地震・津波・原発事故の被害にあって苦しんでいる人たちが多くいる中で「天罰が下った」などと発言する石原慎太郎のような男を東京都民はよくあんな男を都知事に選ぶなあ・・・と悲しく思います。そして、石原慎太郎を尊敬しているとか発言する橋下徹のようなあんな男を、大阪府民はよく府知事に選ぶなあ・・・と情けなく思います。橋下徹なら、まだしも、ハゲ頭の横山ノックの方がマシ。 橋下徹の発言で○をつけられるのは、「政治家の中で最もイケメン」と言われたのに対して、「『ウンコの中では最も形の良いウンコ』と言われたようなもので、別にうれしくない」と発言した、「美しすぎる市議」とかなんか変な文句を売り物にしているグラビアタレントなら2流以下かもしれないという感じのネーチャンよりはマシ という感じの発言くらいのものです。

  橋下徹の暴走を許すならば、ミルトン=マイヤーが指摘した、共産主義者が攻撃された時、自分は共産主義者でなかったから何もせず、社会主義者・学校・新聞・ユダヤ人が攻撃されても何もせず、教会が攻撃されてなんとかしようと立ち上がったが、もはや遅かったという牧師のようになってしまうおそれがあります。

  私は、日本国民の皆さん、特に、大阪府民の皆さんに、次のように呼び掛けたい。

 橋下徹を どげんかせんといかん!  
                               ・・・と。

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 (中)丸山真男『(増補版) 現代政治の思想と行動』(未来社)
 ≪第一回帝国議会招集の直前に教育勅語が発布されたのは、・・・日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言・・・・≫
 (左)山住正巳『教育勅語』(朝日選書)
 ≪彼(内村鑑三)は、勅語に礼拝低頭せよと命ぜられたときのことについて、「・・・其時の余は如何にしても余の良心の許可を得て此命令に服従することが出来なかった」と書いている。≫
 (右)ミルトン=マイヤー『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動』(未来社)
 ≪ナチ党員が共産主義を攻撃したとき、・・・共産主義者でなかったから何もしなかった。・・・社会主義者を攻撃した。・・・社会主義者でなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私は・・・まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それは遅すぎた、・・・≫

 橋下徹を どげんかせんといかん!!
 

≪〔第40回〕 橋下 徹 こそ退陣せよ! 橋下 徹こそ処分されるべきである! 橋下 徹を冷温停止させろ!≫  http://tetsukenrumba.at.webry.info/201106/article_1.html も、ぜひ御覧くださいませ。


   作成者ブログネーム:モンテ=クリスト伯+中原中也+ヴォーリズ

(追記) ニックネーム「えまのん」様よりコメントをいただきました。「えまのん」様が書かれている「カエサルのものはカエサルに」とは、『新約聖書』の中のイエスの言葉によるものなので、その部分を塚本訳から引用してみます。
≪ するとパリサイ人はそこから出ていって、イエスを彼自身の言葉で罠にかけることを決議し、その弟子たちをヘロデ党の者とともにイエスのところにやって言わせた、「先生、あなたは正直な方で、本当のことを言って神の道を教えられ、だれにも遠慮されないことをよく承知しております。人の顔色を見られないからです。それで御意見を聞かせてください。――わたし達は異教人である皇帝(カイザル)に、税を納めてよろしいでしょうか、よろしくないでしょうか。」イエスは彼らの悪意を知って言われた、「なぜわたしを試すか、この偽善者たち。税の貨幣を見せなさい。」デナリ銀貨を差し出すと、言われる、「これはだれの肖像か、まただれの銘か。」 「皇帝(カイザル)のです。」と彼らが言う。すると言われる、「では皇帝(カイザル)のものは皇帝(カイザル)に、神のものは神に返せ。」 彼らは聞いて驚き、イエスをそのままにして立ち去った。≫(『新約聖書』「マタイ福音書」22章15節~22節。〔『新約聖書 福音書』塚本虎二訳 岩波文庫。 ワイド版1991.12.5.より引用。〕) 
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ。」という言葉は、政治と宗教の分離を言う言葉として使われてきました。
   日本国憲法では、
≪第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 ≫
≪第20条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
        何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 
        国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。≫ と定めています。
≪日本国憲法に、この「思想・良心の自由」(第19条)・「信教の自由、国の宗教活動の禁止」(第20条)の規定があるから、「思想・良心の自由」「信教の自由」は守られなければならないもので、憲法に記述がなければ守られなくても良い≫というものではなく、≪「思想・良心の自由」「信教の自由」というものは、どこにおいても、守られなければならないものであり、それを日本国憲法の条文で確認し、保障した≫というものです。
   「えまのん」様の言われるように、 ≪ここは日本国内であり、≫日本は、 日本国憲法の第19条・第20条において、どこにおいてであれ普遍的に守られなければならない「思想・良心の自由」「信教の自由」を守ることを確認し、保障している国です。 日本国政府であれ、都道府県であれ、「思想・良心の自由」「信教の自由」を守らなければなりません。
    ≪ここは日本国内であり、≫ 日本は、「思想・良心の自由」「信教の自由」を守らないような野蛮な国ではなく、憲法で「思想・良心の自由」「信教の自由」を確認し、保障しており、 その≪日本の公立学校の卒業式、入学式なんですから≫、君が代の強制などは、決してあってはならないものです。 これは、決して、人である天皇を卑しめるべきであるなどという主張ではありません。天皇は人として尊重されるべきです。
   (なお、私は、現在の皇太子〔「ひろのみや」、「なるちゃん」〕と同世代であり、「ひろのみや」と一緒に育ってきた者として、「ひろのみや」さんが、なかなか結婚できず、又、結婚しても、子供や嫁さんが順調にいかずに苦労するさまを見て、「なんだか、お互い、なかなかうまくいきませんなあ~あ」とでも言いたい気持ちにもなり、そして、彼が、嫁さんを守ろうと努力する姿を見て、なかなか、いいところあるじゃないか、とも思い、個人的には親しみを感じているのです。これは「天皇制」をどう考えるべきかといったこととは別の問題です。〔「なるちゃん」と言うと、もしかすると、右翼的な人は怒る人もいるかもしれませんが、私は、彼とともに育ってきた世代として親しみから言っているのです。〕)
   「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」という、政治と宗教の分離という原則のもとに、政府や都道府県は、決して、国民に、宗教的行事、及び、宗教的行事と各個人が感じる行事への参加を強制することはあってはならないものです。 大阪府においても、それ以外の都道府県においても、「思想・良心の自由」「信教の自由」が侵されることがないよう、国民として、見守りたいと思います。
                           (2011.10.26.)
〔第56回〕《橋下徹という男の人間性 ~ 殺人犯は死刑が 「当然」 か? 》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201111/article_2.html で、大阪教育大付属小での殺傷事件と死刑についての橋下徹の発言について述べました。御参照くださし。(2011.11.8.)

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この記事へのコメント

えまのん
2011年10月19日 16:49
「カエサルのものはカエサルに」の精神で臨めばよろしいのではないでしょうか?
ここは日本国内であり、日本の公立学校の卒業式、入学式なんですから。

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