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zoom RSS 東京都美術館とブリューゲル『バベルの塔』展【4】高さを競う愚か、美術展と音楽会、公立進学校のメリット

<<   作成日時 : 2017/06/26 23:48  

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[第305回] 東京圏の美術館・博物館(9)−4
   「ボイマンス美術館蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを越えて―」は、4月18日(火)〜7月2日(日)に上野の東京都美術館で開催され、その後、大阪市の国立国際美術館で7月18日(火)〜10月15日(日)まで開催される予定らしい。 だから、「バベルの塔」の絵を見たいと思った関西人は、無理に急いで東京まで行かなくても、7月18日以降に中之島に行けば見ることができる。
※ 国立国際美術館 http://www.nmao.go.jp/
   「『バベルの塔』展」という名称なのだが、「バベルの塔」の絵だけがすばらしくて他はどうしようもないのを大量に置いてごまかしているのかというと、そんなことはない。 他にも、なかなかのものが展示されていると思う。
   東京都美術館の企画展ブースで、地下1階から入って、1階・2階と進み、最後、2階からエスカレーターで地下1階まで降りて出ることになるのだが、2階に↓ なんてのが置いてある。
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↑ 「バベルの塔 の高さ 推定 約510m」で、
「東京タワー 333m」 、「通天閣 108m」だそうだ。
比較対象が、なぜ、東京タワーと通天閣なのかというと、この展示会の開催地が東京と大阪なので、それで、東京で有名な高い建物というと、東京タワーかスカイツリーか東京都庁舎か、大阪だと通天閣かアベノハルカスか・・・・ということで、スカイツリーにしてしまうと、高さ634mとバベルの塔の「推定 約510m」よりも高くなってしまうので、引き立て役としては不適任だということで、333mの東京タワーが引き立て役として選ばれた。 大阪だと、アベノハルカスなんて悪趣味なのは「日本で最も高いビル」と言っているらしいが、約300mで、引き立て役にはなるが、「バベルの塔」との比較だと塔の方がいいだろうから、大阪の塔というと通天閣。
    で、通天閣は「108m」・・・て、ちっさ! て感じだが、だいたい、大阪嫌いの東京もんには、「スカイツリーは634m、東京タワーは333メートル、名古屋タワーは180mで、通天閣って108m、ちっさ! みじめ!!!」とか言って喜ぶおっさんがけっこういるわけだが、そういうのは「イナカモンの発想」と言うべきである。 だいたい、東京タワーとか名古屋タワーとかに比べて通天閣が低かったとしても、それは、東京タワーや名古屋タワーは電波塔として造られたものであるのに対して、通天閣は電波塔ではなく娯楽専用で造られたもので、大阪はテレビの電波は生駒山から発信しているのであって、通天閣から電波が流れているのではないので、通天閣は無理に高くする必要がなかったのだ。だから、通天閣は電波塔である東京タワーや名古屋タワーに比べればずっと低いのであって、それを承知の上でか知らずか、「通天閣って、ちっさ、みじめ!!!」とか言って喜ぶ東京もんというのは、イナカくさ! て感じがする。
   ↑ しかし、↑の書き方だと、なんか、通天閣は無茶苦茶ちっさそうに見える。 通天閣と「バベルの塔」か、東京タワーと「バベルの塔」とだけ書かれているならそうでもないが、↑の書き方は、なんか、通天閣というのが無茶苦茶ちっさそうに見えてしまうではないか・・・・・なんて、「愛国心」からふと思ったが、実際に天王寺駅の北口に立って見ると、通天閣というのは「ちょうどいい高さ」だと私は思ったことがある。 電波塔であれば、電波が飛びやすいように、一定以上の高さにせざるをえないが、通天閣は電波塔ではないので、その場所に合った高さにすることができるのだ。 天王寺駅の北口に立って見ると、通天閣は「ちょうどいい」高さにできていると思う。そもそも、「高さを競う、高さを自慢する・・なんて、そんなものは、後進国の発想」であり、「イナカモンの発想」である。 より高いものをというのではなく、よりその場所にふさわしい高さのものをと考えるべきであろう。
※ 通天閣HP  http://www.tsutenkaku.co.jp/
東京タワーHP https://www.tokyotower.co.jp/
   ちなみに、アラブ首長国連邦のドバイにある ブルージュハリファは、《ウィキペディア―ブルジュ・ハリファ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1 によると、最上階621.3m、最頂部828.9mだそうで、それを↑の横に描いてしまうと、「バベルの塔」て、ブルジュ=ハリファより低いんだ・・・・てことになってしまうので、書けないわけだ・・・・が、ブルジュ=ハリファて、まさに、バベルの塔みたい・・・・だな。 《ウィキペディア―六甲山》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%94%B2%E5%B1%B1 六甲山の最頂部が、931.25m、《ウィキペディア―高尾山》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1 によると、高尾山は599.3m。 高尾山よりずっと高い、六甲山の高さにあとちょっとなんて、そんな建物を人工的に作っていいのだろうか? 少なくとも、はたして、そこまで高い建物を人工的に作ってよいのか、作るのが文化的と考えるべきものなのか・・・・といったことを考える思考があるのとないのとでは、考える思考がある方が文化的であると私は思う。 又、ドバイに行ったことはないのだが、ブルジュ=ハリファのある場所というのは、片方が海で他方には砂漠が広がっているような所ではないかと思うのだが、そういう場所に建てる場合と、日本のように周囲に山があって比較する自然がある場所に建てる場所に建てる場合とでは、また違うと思うのだ。 高さを競う、高さを自慢するというのは「後進国の発想」、「イナカモンの発想」であって、「より高くではなくよりその場所にふさわしい高さ」を考えるのが文化的な態度だと思う。通天閣は東京タワーより名古屋タワーより低くても、なんらかまわないと私は思う。↑の書き方だと、なんか、無茶苦茶ちっさ! て感じはしてしまうが・・・。
   で、「バベルの塔 推定約510m」て、この数字は、どこから出てきたのだろうな・・・・。

   企画展が常設展と違って好きではない点として、展示の最後に売店のコーナーがあって、そこで、プログラムというのかが販売されていて、その他、絵葉書くらいはいいとして、バック・Tシャツとか、ケーキとかCDとか売られていることが多いのだ。 で、・・・・買わなきゃいいのに、つい、買ってしまう・・・ということになりがち。 それも、安いものならいいのだが、この「バベルの塔」展なんて、入るだけでもチケット代は安くない。 「一般 1600円」なのだ。それは、「まあ、しかたがない」と思って払って入場する。それだけの値打ちのものなんだろう、と思うことにして。 入口はいってすぐの所で、音声による解説のレコーダーなんて貸し出していて、今回は借りなかったけれども、借りると500円だか1000円だかそこでとられるわけだ。 そして、いよいよ、出ようとすると、そこで、プログラムというのか、相当分厚い本が販売されていて、「せっかく来たんだから」とか「ここで買わないと、他で売ってるものじゃないから」とか思って買ってしまうわけだ。レシートを見ると「図録」と書かれている。この「バベルの塔」展だと、「図録 2500円」。たっか! たしかに豪華な本ではあるけれども。 で、「入場料1600円+図録2500円=4100円」。 ここで、すでに4100円も支払うことになるわけだ。 さらに、絵葉書なんてのが売られている。 企画展は写真撮影は禁止である。図録を買えばそこに写真も出ているからそれでいいだろうとは思うのだが、絵葉書にて売られていると、どうも、買いたくなるわけだ。 で、買うと、たけえ〜え!!! 絵葉書1枚150円!!! ・・・なんか、えらい、ぼりよんのお〜お! なんて言っては不謹慎かもしれんが、通常の観光地で、セットになったのが200円とか250円とかのものならあっても、1枚が150円て、たけえ〜え!!! それが↓
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↑(左) ヒエロニムス=ボス「聖クリストフォロス」 1500年頃。ボイマンス・ベーニンゲン美術館(ケーニヒス・コレクション)。 最も偉大な人に仕えたいと思っていた渡し守のクリストフォロスがある時、背負った子供は誰よりも重かった。それがキリストであった、という話だそうだ。
(右上) ルカス=ファン=レイデン「ヨセフの服を見せるポテパルの妻」 1512年頃。 ボイマンス美術館蔵。左上の窓の奥で連れていかれるのがヨセフらしい。
(右下) ヨアヒム=パティニール「ソドムとゴモラの滅亡がある風景」 1520年頃。 オランダ文化遺産庁よりボマンス美術館に寄託。 右端を歩いているのがロトと2人の娘らしい。
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↑(左) ヒエロニムス=ボスに基づく。〔「ヒエロニムス=ボスに基づく」というのは、ボスが描いた絵を真似たり、ボスの描き方を習ったりしたボスより後の人の作品らしい。〕 「東方三博士の礼拝」 1540年頃。 ボイマンス美術館蔵。今は昔、カトリックの幼稚園に行っていたもので、12月になると、クリスマスの演劇というのをやり、園児が誰もが何かの役をさせてもらい、一言くらいセリフがあるようにその演劇はできていたのだが、私は、この「三博士の訪問」の場面で2番目の博士の役だったと思うのだが、させてもらった記憶がある。だから、この場面、思い入れがあるのだ。キリストの役とかやりたかったけれども、それはあらかじめ、誰がやるのか決まっていたみたいな感じ。 あれ、誰がどういう経緯で決めてたのだろうな・・・・。今なら、イスカリオテのユダの役ならともかく、キリストの役なんて、あんまりやりたくないけどね・・・・。ひとを助けまくったあげく、十字架につけられる役なんて嫌だよ、こっちが助けてほしいわ、ほんま!!!
(右) ピーテル=ブリューゲル1世 「バベルの塔」 1568年頃。 ボイマンス美術館蔵。
↑ あ〜あ、買っちゃった・・・。 あ〜あ・・・・・。
1枚150円で、5種類買うと、150円/枚×5枚=750円。 そうだ、見に来れないあの人にお土産に買ってあげよう・・・なんて思って、2枚ずつ買ったなら、750円×2=1500円。
この時点で、1600円+2500円+1500円=5600円 となるわけだ。
それに、チョコレートだのケーキだのは買って食べると太るから買わないとしても、Tシャツだのバッグだのなんて買うと、さらにプラス。 別に、ここでバッグ買わなくても・・・なんて思っても、なかなか、センスいいじゃないの、とか思って、ここで買わないとこれは他ではないし、これをさりげなく肩からさげて歩くと、なんか、アーティストて感じがするかもお〜お・・・・なんて思って、誰もそんなこと思ってくれなかったとしても、それなりに使えるものだし、他で買ったってそれなりにするわけだしい〜い・・・・なんて思って、Tシャツはいつかは着るものだしとか思って買ってしまうと、ますますプラス・・・・。 で、美術館見学て、『フランダースの犬』に出てくるネロみたいな苦学生が見に行くものと思って行って、帰り道々、なんか、ちょっと違うような・・・とか思ってしまったり・・・・・。
   音楽会と美術展だと、美術展の方が気楽に行ける・・・という感じはしてしまうのだ。 なぜなら、音楽会は、たいてい、あらかじめ、チケットを予約購入してから行くのに対して、美術展は、時間がとれる日に行って、現地でチケットを買うことができるし、チケット代を考えると、「バベルの塔」展て高そうな感じがしても、1600円。 それに対して、帰りに東京文化会館に置いてあったリーフレットを何枚かいただいてきたのだが、たとえば、2018年1月、文化村オーチャードホールにての「キエフオペラ」「椿姫」なんて、SS席20,000円、S席18,000円、A席15,000円、B席12,000円、C席9,000円、D席7,000円なんて書いてあるのだが、こういうのって、6種類の席があるなら、「真ん中くらいで十分」なんて思いそうだが、実際には、SS席とS席で8割以上で、A席なんて端っこの方で、B・C・Dなんて上の方で端っこの方というのか、かつ、席数はほんのちびっと、発売開始日の朝一番に電話してもD席はすでに1席もない・・・なんてことが多いわけだ。詐欺みたいて感じもするが、そういうものだ。「そういうもの」とあらかじめ思った上で、よし、一大決心して、A席を買おう・・なんて思って電話すると、「あいにく、SS席かS席しか残りはないですね」なんて言われて、S席買ってしまったりするわけだ。2人で行くと倍かかるし。 こういう表示を見て、D席なんて、あんまりあると思わない方がいい、あったらもうけもんくらいに思っておいた方がいい。 さすがに、これは高い! 外国のビッグネームが来るとなると、そりぁ高いが、ましてや、オペラとなると、ソリストだけ来るわけではなく、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・ウクライナ国立歌劇場合唱団なんて来るわけだから、来る人間の数も多いわけだから、そりぁ、高いわ。 で、もうちょっと安いやつということで、2017年12月の東京オペラシティコンサートホールのサンクトペテルブルク室内合奏団「名曲でめぐる弦楽器の世界」なんてのは、全席指定税込み4500円。 これくらいなら払えるかなあ・・・なんて思うわけだ。
   しかし、それでも、4500円というと、「バベルの塔」展のチケットは1600円だから、「バベルの塔」展の3倍近いわけだ。 だから、こういうチケット代で比較して見ると、美術展は音楽会よりも安そうな感じがしてしまうわけだ・・・・・が!!! 音楽会だと、プログラムというのが別料金で売られていたりする。 安いものだと、曲目だけ書いたようなのを、入口でタダでくれたりするが、チケット代がある程度以上の金額のものはプログラムは有料が普通で、かつ、チケット代が高いやつはプログラムも豪勢で高い!・・・・が、仮にプログラム代に1000円払ったとしても、4500円のチケットにプラス1000円として5500円なのだ。 美術展の出口の売店みたいに、Tシャツだのトートバッグだのなんて売ってることは少ない。 ましてや、「バベルの塔」展のケーキ! なんて、音楽会ではたいてい売っていない。 演奏の途中に、ホールでコーヒーでも飲むとその分はかかるが、コーヒーなんてどこで飲んでもコーヒー代はかかるわけで、安くはないとしても世間の10倍もの値段ではない、「海の家」よりは安いのではないか。万一、耳鳴りするほど高ければ、無理に飲まなければいいわけだ。 音楽会の場合、ホールでその時の演奏者のCDなんて売ってることもあるけれども、それだって買いたくなければ買わなくてもいいし、後で欲しければ、アマゾンででも買えるというものが多い。
    こういったことを考えて比較検討してみよう。
「バベルの塔」展。 チケット代1600円+図録2500円+絵葉書1500円+トートバック3500円=9100円。
なんと、1万円近くの出費になってしまうわけだ。
「サンクトペテルブルク室内合奏団 弦楽器の世界」 チケット代4500円+プログラム代(仮に)1000円=5500円。
ということで、美術展は、必ずしも、音楽会よりも安いとは言えないわけだ・・・・・。
   その点、常設展だと、常設展でも美術館に売店はあって、絵葉書とか売っているとは思うけれども、その金額が違うわけだ。 そういう点でも、企画展にうかつに行くと、あっという間にカネがなくなる法隆寺♪ だから、企画展に行くのは、十分、用心して行かないといけない。 金持ちは関係ないかもしれないが、私ら「日陰の月見草」は「わしぁ、び〜んぼうやからな」ということで、気をつけよう。

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↑ 東棟の2階から見た中庭。(念のため、断っておくが、ガラスに映っている人影は、室内にいる人の姿がガラスに映っているのであって、霊能写真とかいうものではない。)

   今まで、企画展を見に来た際、地下1階の出入口から入って、同じ地下1階の出入口から出ていたのだが、今回、1階の「佐藤慶太郎記念アートラウンジ」で
ル・コルビュジェと前川國男」「ル・コルビュジェ、前川國男、東京都美術館」パネル展示 入場無料で開催されていて、地下1階から1階の「アートラウンジ」に上がって(といっても、「地下1階は窓から屋外の中庭が見えるので、地下1階が1階みたいな感じでもあり、地下1階を1階とすると、1階が2階になるのだが)、そこから出たことにより、これまでとは異なった風景を見ることができた。↓
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↑ 中庭1階部分。 南方向を見る。
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↑ 中庭1階部分。 東方向を見る。
東京都美術館は、コの字型になってたかな・・・と思って落ち着いて考えてみると、この東側の位置で1階・2階はとぎれていて、とぎれている所から出入りもできる。
東京都美術館は、それぞれの面で異なった顔をしており、また、見る位置によっても見え方が異なる点がおもしろいし、「手抜きをしていない」という印象を受ける。

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↑  中庭から見た東棟。 窓からカラフルな椅子が見える。 建築は建物だけが建築ではなく、椅子などインテリアも含めた全体が建築だということが、この写真などからもわかる。

※ 東京都美術館HP http://www.tobikan.jp/
《ウィキペディア―東京都美術館》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
《ウィキペディア―前川國男》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%B7%9D%E5%9C%8B%E7%94%B7

    少し前、「サンデー毎日」に、大学進学についての記事が掲載されていて、そこで、6年制私立受験校は公立進学校(もちろん、3年制)と比較して、中学生の時から高校に配置されている勉強を始めて、高校3年の時には、受ける大学の問題に対する対策をやることができるので、その分、公立進学校よりも有利だと書かれていたのだが、そういう面もあるかもしれないが、そうでもない面もあるのではないかと私は思ったのだ。 
   「そういう面もあるかもしれない」というのは、慶應大の民法の助教授に教えてもらった話だが、慶應義塾高校から慶應大に進学する場合、一般の公立私立の高校から内部進学でない一般入試で東大・京大・阪大や慶應大・早稲田大などに進学する場合に比べて、「大学に入学するための勉強」の負担が軽いため、慶應義塾高校の1年から司法試験(今はなくなった旧型司法試験)の勉強を始めて、慶應大法学部4年の時に司法試験(旧型司法試験)に通った、という人があったという。旧型司法試験は憲法・民法・刑法の短答式試験は5月に実施されていたので、大学は4年間といっても在学中に通ろうと思えば、学習期間は一般入試で大学に入った人間にとっては3年しかないのに対し、慶應義塾高校から慶應大法学部に進んだ人の場合、高校3年間と大学の1年から3年までの3年間の合計6年間の学習期間があることになり、3年の学習期間の者と6年の学習期間の者とでは、さすがに6年の者の方が有利! という面があったようで、そういうことはあると思うのだ。
   私立6年制受験校の場合、中学校から高校に進学する時に試験がないので、中学校の科目としてはあるもの、高校入試においては必要であるもので、大学入試においては出題されない、あるいは、大学入試の科目にないというものは、思いっきり手を抜く、ということができるため、高校入試において、大学入試には必要ない科目や出題されないものも学習しないといけない公立進学校の人間と比べて、その分が有利、ということは、「まったくないことはない」とは思う。 しかし、「そうでもない面」もあると思うのは、『東京大学機械的合格法』(実業の日本社)で著者の柴田孝之が書いていたが、人間というものは、6年間も試験がないと、特に中学校から高校という若い時期の6年間というのは年齢がいってからの6年間よりも実質的に長く、その実質的に長い6年間に試験がないと、どうしてもなまけてしまうことになりかねない、というのだ。
   そして、私立6年制受験校は、中学校の勉強、高校入試の勉強では必要だが大学入試では必要でないものをやらない、もしくは、思いっきり手を抜くことができることから、中学校の時から大学入試を踏まえて学習できるので、その分だけ公立進学校の人間よりも有利という面もあるかもしれないが、実際問題として、灘高校とか開成高校とか中学校からも高校からも採っている私立受験校では、高校から入った人間の方が中学校から入った人間よりも成績がいい場合が多いというのだ。 だから、6年制だから有利という説は、「そういう面がまったくないわけではない」が、「そうでもない面もある」と考えるべきだと私は思う。
   それとともに、私立6年制受験校の出身の人間を見て、はたして、あれでいいのだろうかと思ったことが何度もある。「中学校でやっているもので大学入試には出ないもの」というのは有害無益なのだろうか? 慶應の内部進学の教授は、たとえば、商学部の助教授(今は教授らしい)の黒川行治せんせいなんかは、「会計学総論」という科目の講義の最中に、「この僕は中等部から慶應に行ってるんだぞお。我々内部進学の人間はおまえら外部の者とは違うんだ。わかってんのかあ。おまえらは偏差値が高い優秀な人間だとか思ってるんだろお。そんなものは受験勉強だ。害があるんだ。その点、我々、内部進学の人間は『塾風』というものを身につけている。おまえらとは違うんだ。わかってんのかあ。」と教壇で絶叫されたことがありましたように、慶應の内部進学の人というのは、小学校から高校までの勉強というものは「受験勉強」であり「害がある」と「中等部から」(中学校の時から)教えられてきているようでして、そのかわりに「塾風」というなんかようわからんウイルスみたいなものを身につけてきているそうなのです。内部進学の人にとっては、小学校から高校までの学習というものは、すべて、「受験勉強」で「害がある」というものなのです。それと似た感じなのですが、開成高校など私立6年制受験校の出身の人と話をすると、音楽とか美術とかいうものは、「そんなもの、何の役に立つんだ」と言うのです。私、言われましたから、開成高校卒の男から。
   私なんかは、体育はあんまりできる方ではなかったけれども、音楽と美術については、中学校から高校に進学する時の内申書の成績も10段階相対評価で「10」でしたし、「主要5科目」よりも音楽や美術の方が好きだったくらいでして、小学生の時には、近所の絵の先生の所に日曜ごとに通って指導を受け、土曜日にはピアノの先生の所に通って指導を受け、ピアノの発表会となると、「先生の息子になんか、負けてはいけません」とか母から言われて、時には「一番でないとだめなんですか。二番ではだめなんですか」とか言ってみたい時もありましたが、常に「一番になりなさい」と脅迫的に言われてやってきましたし、別に脅迫的に言われなくても、音楽と美術は好きでしたので、常にいい方の成績をとってきたのです。なれるものかどうかは別として、ベートーベンみたいになりたい! なんて思った時もありました。
   慶應大で、あるサークルの部室において、大阪教育大付属高校卒の男と、オペラ「トスカ」について話をしていたところ、横にいた開成高校卒のMが、Mに話をしていたのではないにもかかわらず、「そんなもの、何の価値があるんだ」と口出してきたということがあったのです。 開成高校卒のMにとっては、オペラ「トスカ」なんてのは、「そんなもの、何の価値があるんだ」というもののようでした。彼、開成高校卒のMにとっては、音楽とは「恋かな〜、イェイ♪ 恋じゃな〜い♪ イェイ」のこと、それが音楽だったのです。〔⇒《YouTube-早見優 夏色のナンシー》https://www.youtube.com/watch?v=HvMXNEAX-wQ 〕 どうも、開成高校ではそういうものを音楽だと教えているようです。 そして、オペラ「トスカ」とかは、「そんなもの、何の価値があるんだ」と、6年間、かけてみっちりとそういう観念をたたきこんでいるようなのです。〔⇒《YouTube-Pavarott(パバロッティ)i E lucevan le stelle(星は光りぬ)》https://www.youtube.com/watch?v=4mX7ugJ5NM8 、《YouTube-Placido Domingo(プラシド=ドミンゴ) - Tosca(トスカ) - E lucevan le stelle (星は光りぬ) 》https://www.youtube.com/watch?v=hxdiJ74AL5Y 〕 かわいそうなヤツだな、こいつ、かわいそうな教育うけてきてるな、と思いました。かつ、そういう思想、そういう観念を持っている人間が世界で一番エライみたいに思っているのです。
     私が中学校を卒業した1970年代半ば、兵庫県の私立高校の灘高校は数学・英語・国語・理科の4科目(社会は試験になかった)で、この4科目だけできれば合格できたのに対して、北野高校など府立高校は筆記試験での5科目と内申書による5科目と音楽・美術・技術家庭・保健体育の成績とを合わせて合否は決められていたので、北野高校などに行く人間は中学校では音楽や美術も人並み以上にやっていたのに対し、灘高校は極端な話、音楽や美術は0点でも合格できた。私立高校は入試で内申書は重視しないものということだろうくらいに思っていたが、オペラ「トスカ」を「そんなもの何の役にたつんだ」という中学校から開成に行ってた男を見て、やっぱり、中学校で音楽や美術をやらない学校はあかんな、と思った。
    さらに、もうひとり、同様のことを言ってきた男がいました。それは慶應義塾高校卒の男でした。開成高校卒の男は、オペラ「トスカ」なんて「試験にでない」、だから、入学試験が終わった後においても「何の価値があるんだ、そんなもの」と言うのですが、慶應義塾高校卒の男はそうではなく、「そんなものは受験勉強だ。害がある」と言うのです。慶應の内部進学の人間にかかったら、ともかく、自分が知らないものわからないものは入学試験に出ないものでも入学試験にない科目でも「受験勉強」です。だから、オペラ「トスカ」もまた「受験勉強」で「害がある」ことになるようです。この点で、「慶應に中等部から行ってる」やつと「開成に中等部から行ってる」やつというのは大変よく似ています。開成高校卒のヤツも慶應義塾高校卒のヤツも、どっちもかわいそうなヤツだなと思いました。そして、思ったのです。「聖なるものをイヌにやるな。真珠をブタに投げてやるな。おそらく、彼らはそれらを足で踏みつけにし、向き直ってあなたがたに噛みついてくるであろうから」と聖書に書かれているが、その通りであると。彼らには「恋かな〜、イェイ、恋じゃな〜い、イェイ♪」が似合いなのです。彼らは、死ぬまで、「恋かな〜、イェイ♪ 恋じゃない〜い♪ イェイ」を音楽だと信じて人生を送る人、そう信じる人間が立派な人間、「そういう人間の方が社会で役に立つ」と信じて生きる人、はっきりと大きな声でそう口にする人なのです。 
   私は、今、はっきり思っています。開成高校とかそういう私立6年制受験校出身の人間て、すんなり東大に通った人間にしても、浪人して慶應大に行くような落ちこぼれにしても、どっちにしても、かわいそうな人間だな、と。 最終的にどこの大学に行ったにしても行かなかったにしても、「恋かな〜、イェイ♪」を音楽だと信じて、オペラ「トスカ」を「そんなもの、何の価値があるんだ」と思うようなそういう観念を6年間かけてみっちりと叩き込まれて来た人というのは、大学卒業後、出世しようがしまいが、かわいそうな人だなと思います。 「幼稚舎から慶應」という人で、「種無しブドウ(デラウエア)は、ひとに皮をむいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくってなら食うけれども、自分でひとつひとつ皮をむいて食べるなんて、そんなおかしなことできるかあ」とのたまわれた方がおられましたが、この話を他大学出身の人に話すと、誰もが「その人、かわいそうにねえ〜え」と言います。私も、傲慢不遜な男ではあるが、それ以上に「かわいそうに」と思いますね。種無しブドウ(デラウエア)というのは、私なんか、「ひとに皮をむいてもらってお皿に盛ってもらって」なんて思ってもそんなことしてくれる人なんてどこにもいませんが、彼にはそういうことをしてくれる人があったのでしょうけれども、自分で房からひとつひとつちぎって自分の口まで自分で運んで食べてこそおいしいのであって、「人に皮をむいてもらってお皿に盛ってもらってスプーンですくってなら食う」て、かわいそうな教育うけてきてる人だなあ〜あ・・・・と思いましたが、それと同様。「恋かな〜、イェイ♪ 恋じゃない〜、イェイ」が音楽で、オペラ「トスカ」は「そんなもの、何の価値があるんだ」という観念を6年間かけてみっちりと叩き込まれて来た人って、かわいそうな人だなあ〜あと思いました。
    私の父の友人の友人で大阪の府立高校の先生をしていた方が、「東大よりも京大の方が上だと思うぞ。 東大みたいなもん、私立高校の出身の人間ばっかりだろ」と言われたことがありました。 それを聞いた時は、その意味がよくわからなかったのですが、慶應大に行って、私立6年制受験校出身の人間とかかわる経験をすると、そうかもしれないと思うようになりました。オペラ「トスカ」を「そんなもの、何の価値があるんだ」と言う人間というのは、入学試験で何点とろうが、あんまり優秀な人間ではないのではないのか。 特に、「そんなもの、何の価値があるんだ」という認識の人間がエライという意識を観念的に叩き込まれて来た人間というのは、あんまり優秀ではないように思うようになりました。その点で、京大の学生一般と東大の学生一般では京大の学生一般の方が優秀ではないか、さらに、阪大の学生一般と東大の学生一般なら、もしかして、阪大の学生一般の方が優秀ということはないか? とも思うようになったのです。

   小学生の時、ピアノを習っている小学生というのは女性の方が多いのですが、本来はそれはおかしいのです。 なんで、ピアノって「女性がやるもの」なのですか? 発表会の時、ピアノの先生が「男の子だから行進曲がいいでしょう」なんて言って、なんだったか行進曲を弾かされましたが、それから年月が経てば経つほど、「なんで、男の子なら行進曲なのか?」と疑問が深まりました。 その曲を、前年の発表会の時に弾いたのは、そのピアノの先生の息子でした。 母は「ピアノの先生の息子みたいなもんに負けたらいかん」と言ったのです。 だから、私はピアノの先生の息子になんか負けないつもりでやりました。 親が「ピアノの先生の息子になんか負けたらいかん」と言ったのですから、ピアノの先生の息子になんか負けないで、ピアノであれ他のものであれ、芸大なり音大なりに行って音楽家になりたいと言えば親は喜んでくれると思ったのです・・・・が、それは違ったようです。 「この子は老後の対策のための子なんだから、そんなもん、老後の対策にならんようなもん、ちょっとでもさせて、たまるかあ〜あ」と、母は私が20歳頃になると言いました。 「親というものは、子供が、将来、大学に行って仕事につこうという時に、行きたい大学に行ってつきたい仕事につけるようにと思って、それで、子供の頃から、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と、母はそう言っていたはずでした。 しかし、そうではなかった。
   北野高校卒で、佐伯祐三という人が画家になっています。 「郵便配達夫」の絵なんて、すばらしいと思います。 あんなになろうと思っても、それは簡単ではないかもしれない。しかし、芸大の美術学部とかそういう所に行って教員養成課程を履修すれば、美術の先生くらいならなれるかもしれない。 パバロッティみたいになろうとしても、それは簡単ではないかもしれないけれども、芸大の音楽学部に行って教員養成課程を履修すれば音楽の先生くらいならなれるかもしれない。 芸大・音大でなくても、東大・京大や慶應・早稲田などの大学でも、文学部の音楽学科に行って大学院に進めば、演奏者としての音楽家ではないが、音楽史の研究者になれる可能性があるし、そうでなくても、卒業後、音楽関係の出版社とかそういう所に就職したいと思えばできるかもしれない、学芸員の資格をとって美術館・博物館に勤務するというのも、けっこう競争率は高いとかいう話もあるけれども、そういう道だってあるのではないか。 そういったことも考えたりもしましたが、「もしも、生まれ変わってくることがあったなら、その時は、岩城宏之さん(NHK交響楽団 指揮者)のようになる」と何度も言っていた父は、「撃ちてしやまん。会社のために。死んでも働く、死ぬほど働く。とってちってたあ〜あ!!!」と私には言うようになりました。自分が「もう一度生まれてきたら」と私に対してでは正反対だった。「子供が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行けるように。つきたいと思う仕事につけるように」などというのはまウソだった。「会社のために、とってちってたあ〜あ」と父は毎日言いました。「それが、フツーの人生というもんや。フツーの人生。 うちの会社に来とる亜細亜大のヤツとか、国士館大のヤツとか、拓殖のヤツとか、大東文化大のヤツとか帝京大のヤツとか大阪経大のヤツとか、ぴ〜ん大のやつとか、そんなもんや。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。あんたもぴ〜ん大のヤツなんかとおんなじようにやんなさい。ぴ〜ん大のヤツなんかと」・・・父はそう言ったのです。そして、「宴席では、おまえは黒田節を歌え。うちの叔父さん(父の弟)は同志社でグリークラブにおってな。そんで、会社に勤めたら、グリークラブで鍛えた声で黒田節を歌いおるんや。あんたも黒田節を歌いなさい。さ〜あけえわあのおめえのおめえ、の〜むうならあばあ〜あ、と。 ええやろ。黒田節、歌えよ、黒田節を」と、そう言ったのです。私は、小学生の時からピアノの練習をして、発声練習をして、コールユーブンゲンの練習までして、そして、「さ〜あけえわあのおめえのおめ、のおむうなららあばあ〜あ」と歌わされるらしい。そういうために、発声練習やコールユーブンゲンやってピアノの練習もさせられたらしい。「何が何でも一番になりなさい」と言われて。「ピアノの先生の息子みたいなもんに負けてはいけません」と言われて。 私が親なら、いくらなんでも、かわいそうで、そんなことよう言いませんが、父は大威張りで言う男でした。なにしろ、父は「ひとを支配しなければならないと神さまに命じられたドイツ人の民族」でしたから。ピアノの先生の息子は、ピアノの練習をして、音大に行きたいと思えば行かせてもらえるのです。 そして、ピアニストとしてやっていけるならピアニストにならせてもらえるし、ピアニストとして食べていけないにしても、音楽の先生になりたいと思えばならせてもらえるのです。 それに対して、私は「そんなもん、音楽の先生なんてとんでもない。だ〜れがそんなもん、ならせるかあ〜あ」と母は言い、そして、父は「『さ〜あけえわあ、のおめえ、のおめ、のおむうなあらあばあ〜あ』と歌え、甘ったれとってはいかんぞ、チャンコロ、甘ったれとってはいかんぞ、チャンコロ」と、そう言ったのです。 失敗しました。 小学校の時から、図画工作でも音楽でも「一番でないとだめなんですか。二番ではだめなんですか」なんて、もしも言おうものなら、激怒されたでしょう。 そうやってきたのに、「さあ〜あけえわあ、のおめえのおめ、のおむうなあらあばあ〜あ」だそうです。失敗しました。もっと、うまく手を抜いて、勉強できないようにするべきでした、ということになります。「ぴ〜ん大のやつとか、ぽ〜ん大のやつとかと、おんなじようにやれ」ということですから、ぴ〜ん大のやつとか、ぽ〜ん大のやつと同程度だけ、勉強すればよかった。キリギリスが遊んでいる時に、アリのように勉強することなかった、ということになります。
※ 知らない方のために説明すると、「ぴ〜ん大」というのは「ピンク大」→「桃大」で桃山学院大学のことで、「ぽ〜ん大」というのは日本大学のことです。「ニッポン大学」から「ポン大」ですが、「アッポン大学」のニュアンスが含まれています。
   「恋かなあ、イェイ♪ 恋じゃな〜い、イェイ♪」が音楽だと心の底から信じて、オペラ「トスカ」なんて、「そんなもの、何の価値があるんだ」と心の底から信じている開成高校卒の男の方が、「さ〜あけえわあ、のおめえのおめ」と歌えと言われても抵抗はないかもしれません。 そういうことを考えると、開成高校というのは、サラリーマンには向いている人材を育成しているのかもしれないし、「そういう人間の方が社会で役に立つ」のかもしれません・・・・・が、それでも、やっぱり、オペラ「トスカ」であったり、あるいは、恋の歌であっても、「恋かなあ、イェイ、恋じゃな〜い、イェイ♪」なんてくだらん歌ではなく、「モスクワ郊外の夕べ」なんてものでも、あるいは「愛の妙薬」〔⇒《YouTube-Luciano Pavarotti : Una furtiva lacrima》https://www.youtube.com/watch?v=2J7JM0tGgRY 〕なんてのを歌ってみようという気持ちにならない人間て、あるいは、ブラト=オクジャワの歌なんかに感動する心のない男というのは、ブサイクだと思うし、なんで、そんな人間が大学に行ってるのかと私は思いますね。そんな連中の大学に行かされるのは嫌だった・・・・が行かされてしまった。
   神田神保町の名曲喫茶「白十字」(「しろじゅうじ」ではなく「はくじゅうじ」と読むようです)に行ってきた後、同じ中学校から同じ高校 北野高校に行って、私より先に慶應大に行った男Sと話をすることがあった際に、神田神保町の名曲喫茶に行ったことを言うと、彼はこう言ったのだ。「おまえ、なんか、東大の学生みたいなことするなあ。 慶應の学生なら慶應らしくしろよ。慶應の学生なら神保町に行ったら芳賀書店に行くものだろうが。慶應の学生なら芳賀書店に行け」と、彼はそう言ったのだ。芳賀書店が「慶應のアイデンティティー」らしい。情けない大学だと思った。名曲喫茶に行くと、芳賀書店に行くヤツから「慶應の学生のくせに、東大の学生みたいなことしやがって、こいつ、腹立つなあ」とか言われる大学が嫌いだった。今でも嫌いです。
※《ウィキペディア―佐伯祐三》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%A5%90%E4%B8%89
※ 知らない方のために説明すると、「芳賀書店(はがしょてん)」というのは、神田神保町の「専大前」交差点の南東側のカドにあって、ポルノ書籍やアダルトビデオ、「おとなのおもちゃ」とかを専門で販売している店である。そういう店に行くのが「慶應のアイデンティティー」だそうだ。

   企画展を追いかけて、東京都美術館にばかり行くのはしばらく控えようと思ったのだが、困ったことに、来年、2018年1月23日(火)〜4月1日(日)に、「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」なんてのが東京都美術館で開催されるらしい。 困った・・・・。
   (2017.6.26.) 

☆ 東京都美術館とピーテル=ブリューゲル1世「バベルの塔」展
1.「ピーテル=ブリューゲル1世」とは。屋外燈の高さ http://tetsukenrumba.at.webry.info/201706/article_6.html
2.上野公園内における東京文化会館と東京都美術館 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201706/article_7.html
3.美術館へのアプローチ、「囲う」手法による美術館領域 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201706/article_8.html
4.高さを競う愚か、美術展と音楽会、公立進学校のメリット 〔今回〕 

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東京都美術館とブリューゲル『バベルの塔』展【4】高さを競う愚か、美術展と音楽会、公立進学校のメリット 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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