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zoom RSS 「父の日」に思う。 奈良女子大受験生の人、弟に「応援」してもらいたいですか?

<<   作成日時 : 2017/06/11 00:01   >>

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[第301回]
   戦後すぐの時期、母が嫁入りした時、父の両親は健在で父の弟(私からすれば叔父)も同居していた。その「家」に母が嫁入りしたのだが、母にとって義父(私からすれば祖父)は人生で出会った唯一の頼もしい男性・頼りになる男性・自分のことを配慮してくれる男性であったようだ。 それに対して、父は若くて年収も少ないだけでなく、結婚した時点で、父は24歳、母は22歳で、父は若かったこともあり、頼りなかったという。
    これは、実際、私が人生を生きて認識したことだが、人間は人生を生きて苦労して身に着けないとどうしようもないというものがあると思うのだ。 慶應大の「近代思想史」という講義で、教授がジャン=ジャック=ルソーが『エミール』で述べている教育論について、「自分は自分で守らないと誰も守ってなんかくれないぞ、ということを教えることができれば、その教育は正しい教育だと言えるということですね」と話されたことがあった。ルソーの『エミール』は岩波文庫で3分冊、けっこう分厚い本で、私はこの話を聞いて、自分自身で『エミール』を読んでみようと岩波文庫の3分冊を購入したが、1冊目の途中で止ってそのままになっている。だから、自分で最後まで読んだわけではないが、「近代思想史」の教授が講義の中で話されたことなのだから、『エミール』の中にそういうことが書かれているのだろうけれども、それを学校という所で「教育」としておこなうものかという点については、それは違うと私は思うようになった。それは、自分自身で人生を生きて身に着ける認識であり、教室のような所で「先生」のような立場の人から話されても、書物に書かれていることを読んでも、「そうかいなあ」と思うことはあっても、実感としての認識はできないと思う。実際に、自分自身で痛い目にもあい、それこそ、おのれの骨と肉のきしみとともに味わってこそ身に着くようなところがあるものだと思う。
   もうひとつ。女性は20代前半で結婚してもよいが、男性は20代前半で結婚してはいけないのではないか、という気もしないではないのだ。 30過ぎると、今度は、そこからの人生は年月が過ぎるのが速く、あっという間に40になってしまうから、それを考えると20台のうちに結婚するようにした方がよいのではないかとは思うし、日本の制度というのは「子供手当」だのなんだのと、ひとより先に結婚してあとさき考えずに子供を作った人間を保護するためにまだ結婚できていない人間や結婚はできたが子供はできないという人間を犠牲にしようという制度になってきているので、それを考えると、ともかく、早く結婚して子供を作らないと損! みたいなところもあるのだが。 そういうことはあったとしても、人間は結婚して配偶者とともに人生を生きていく上で身に着けて行くものと、結婚前に独身でいる時に苦労して努力して身に着けるべきものとがあって、それは性質が違うように思うのだ。 女性の場合、20代前半で結婚しても、結婚する相手の男性が20代後半から30代くらいで、男性がそういったものを身に着けてきている人間であれば、結婚した相手の男性からそういう知恵を学ぶということもできるが、男性の場合はそうはいかない。 運動選手などでは年上の女性と結婚する人がけっこう多いようだが、それは、その運動競技においては努力して実績を残しその運動競技においては自信があっても、それ以外の世間を知らない人間だということを自覚しているので、それで、結婚相手には比較的しっかりした人と結婚したいという意識があるのではないか。 運動選手などはそれでいいかもしれないが、一般の人間はそうではない。男性の方が自分自身で人生を生きて、そして、そこから学ばないといけないし、結婚前の人生から学んだものがないと、そういったものなしで結婚した場合に、結婚後に身に着くかというと、結婚後に身に着くものと結婚前に身に着けないといけないものは性質が異なるので、結婚前に身につけておかないといけないものを身に着けることなく結婚した男は、いつまで経ってもそれなしで人生を送ることになり、その男と結婚した女もまた、「結婚した男性から学ぶもの」なしで人生を送ることになる・・・・ということがありうる。(人間はひとりひとり違うので、あくまで、これは一般論であり、そうでないケースだって中にはあるかもしれない。)
    父は「わしは真面目やね〜ん」としばしば口にしていた。子供の頃、最初はそうかいなあと思っていたのだが、自分自身が成人して後は、なんか、賢くないおっさんやなあと思うようになった。 映画『シャレード』で、ケーリー=グラントが演じるピーター=ジョシュアが「男は、ある程度の年齢になると、『真面目』と言われると居心地が悪いものなんだ」と言う場面があったが、たしかにそうだよなと思ったのだが、その「ある程度の年齢」を過ぎても「わしあ、真面目やねん」と言って(あるいは、言われて)喜んでいたおっさんというのは、あんまり賢くないなあと思うようになった・・・が、そういうおっさんだった。

    数学者で教育論者の遠山啓(ひらく)は『教育問答 かけがえのないこの自分』(1978.7.31. 太郎次郎社)で、≪ 父親はなんといっても家族のなかでいちばんの世間学者であり、悪くいうと、いちばんの俗物だ。いくら利口な母親であっても、その点ではかなわない。 その俗物的な世間知から子どもは多くのことを会得するのだが、父なし子にはその機会が少ない。 だから、父なし子はたいてい世間知らずだ。 よくいうと純情だということになるだろうか。 そのために、父なし子は世間にでてから、自分で数多くの失敗を繰り返したあとで、やっとそういう世間知を身につけることができる。 ・・・・≫と述べているが、遠山啓は、小さい頃に、父の顔を見る前に父を亡くしたというだけあって、「父親」というものをいいものと思いすぎているのではないかと思えるところがある。もしくは、よその父親を見て、お父さんがいる家庭というものはいいなあと思ったのかもしれないが、それは、かなり、いいお父さんを見て、お父さんというものはいいものだなあと思ったのではないか。≪ 父親は家族にとってはなんといっても世間の荒波を防いでくれる防波堤のようなもので、そのなかで家族は安心して生活できる。・・・・≫などと書いているが、それは父親なしで育った人が言うことだ。世の中にはそういうけっこうなお父さんもいるかもしれないが、そうではない場合もある。父親が「世間の荒波」を引っ張り込んでくる場合もある。外敵から守ってくれるお父さんというのもあるかもしれないが、外敵を引っ張り込んでくるお父さんだってあるのだ。我が家は、父は私が30を過ぎた頃まで生存したので、父親がない家庭ではなく、私が成人するまで父は勤めに言って今の私より高い給料を受け取って来てくれて生活費を出してくれた。これは大いに感謝するべきものだと思うが、その一方で、遠山啓が言うような≪いちばんの世間学者であり、悪くいうと、いちばんの俗物≫というような「世間知」なんかない男だったし、「世間の荒波から防いでくれる防波堤」などというものを期待するのは無理な人間だった。 だから、その点で、私は遠山啓が言うところの「父なし子」と一緒で≪世間にでてから、自分で数多くの失敗を繰り返したあとで、やっとそういう世間知を身につけることができる≫という人間だった。今でも、別にものすごい「世間知」を身に着けたということでもないが、若い頃に比べれば、相当多くの痛い目にあって、それと引き換えに、いくらかは賢くなったかと思う。

    船場の商社で相当やり手だったという義父(私にとっては祖父)は母にとって人生で唯一の「頼りになる男性」「頼もしい男性」であったらしい。しかし、父と祖父とは仲が悪かったのかどうかわからないが、母が言うには、まったく話をしない間柄だったといい、祖父(母からすれば義父)と祖母(母からすれば義母)とは一緒に出かけても途中で分かれて別に帰ってきたりして、必ずしも仲はよくなかったらしい。 そこで、「祖母−父」対「祖父(母からすれば義父)−母」という構図ができたが、嫁を守ってくれた義父(祖父)は娘(私からすれば姉)が2人生まれた後、母が嫁入りして5年後くらいに他界してしまった。 そこから、母を守ってくれる人間が存在しなくなり、下の姉はまだ赤ん坊の時、上の姉は父について、「父−祖母−上の姉」対「母」という構図になり、父はその絶対優位な立場のもとに、「わ〜しほどエライ人間はおらんねんぞお」という意識を確立したようだ。 また、戦後、戦争で死亡した若い男性が多く、結婚適齢期の男女比では男性が少なかったということから、「もらってやあってやあってやあってやったった」と父はよく言っていたという。 下の姉が物心がついた時、「父の同盟者」という有利な椅子は先に上の姉が占めていたことから、下の姉はしかたなしに「母の同盟者」という必ずしも有利ではない椅子を選択することになり、「父−祖母−上の姉」対「母−下の姉」という構図となった。父の給料は安く、かつ、「ええかっこしい」であったので、弟と弟の婚約者には「外で食事をするとカネがかかるからうちで食べればいい」と言って、婚約者にまでうちで食べさせようとして、もともと、やりくりに苦労した母はなおさら苦労したそうだ。 母が買い物に行く際、何何を買ってこいと父なり祖母から言われ、市場に行っても、母が持っている財布にはそれを買うお金はなく、しかたなしに買わずに帰り、「買って来いと言ってのになんで買って来なかったんや」と怒られ、母は「忘れました」と言い訳をしたらしい。
   その「父−祖母−上の姉」対「母−下の姉」という構図のところに、3番目の子供(私)が生まれた。そこで、「父−祖母−上の姉」対「母−下の姉」対「子供(私)」という構図になった。それは、「父−祖母−上の姉」対「母−下の姉」という構図と「父−祖母−上の姉」対「子供」という構図と「母−下の姉」対「子供」という構図という3つの構図の複合体であった。祖母は年齢がいき、そのうち、老人ホームにはいった。ここで、「父−上の姉」対「母−下の姉」対「子供(私)」という構図になり、「母−下の姉」という勢力はそれまでよりはいくらか力は増したが、母は依然として「夫に逆らえない女」であった。
   祖母が老人ホームにはいり、普段、家にいなくなったことから、父にとって、「父の同盟者」としての上の姉の重要性は高まった。上の姉は、父が私に何か言って私が納得いかないという態度を取った時には、必ず、さりげなく、横によってきて父に加担した。すると、父はどうしたか。もし、私が父親なら、娘が弟にえらそうな口をきいたなら、「おまえは、弟と多少歳が離れていたとしても、姉であっても親ではないのだから、黙ってろ」と言うところであるが、父はそういう人間ではなかった。姉が父に加担すると大喜びした。「ほら、ほら、ほら、ほら。しっかりしたお姉さんが言いはった、言い張った。しっかりしたお姉さんも言いはったやろ。ほら、ほら、ほら」と、そう言ったのだ。それを見て、下の姉もまた、上の姉がそういう扱いを受けるなら自分も同じように弟に対して親のような態度をとる権利があるのではないかと思ったようだが、父は下の姉にはそれを許さなかった。なぜなら、下の姉は「母の同盟者」であって、上の姉のように「父の同盟者」ではなかったから。「A子さんの言うことはきいてはいかんぞ。A子さんはアッポちゃん。A子さんはアホな子」とか言っていた。父は「わしとか、T子さん(上の姉)とかはドイツ人やねんぞ。あんたあはチャンコロ。チャンコロはチャンコロらしくしろよ。チャンコロはチャンコロらしく、ドイツ人にはどんなことでも服従しろよ」と、私が四捨五入するとハタチになるくらいになると毎日毎日言うようになったが、これは、考えてみると「言い得て妙」の表現だった。
   ドイツ人は中国に租借地を確保して支配する。日本人はそれを見て、日本もまた中国に租借地を持って支配してよいのではないかと考えるが、ドイツ人はドイツが中国に租借地を持って支配するのは「優秀なゲルマン民族」として「世界に冠たるドイツ」として当然のことであるが日本が中国に租借地を持つのは許すわけにはいかんと考え、フランス・ロシアとともに「三国干渉」をおこない日本が中国に租借地を持つのは許さない。父と上の姉は「ドイツ人」で、母と下の姉は「日本人」で、そして、私は「チャンコロ」だったのだ。だから、「ドイツ人」は「チャンコロ」を支配するのは当然で、「ドイツ人は常にひとを支配し命令するために神さまから作られた民族であり、チャンコロは常にひとに支配されるために神さまから作られた民族なのでアール! おまえは支配され命令されるのを喜ぶ民族でアール!」と毎日毎日私に言っていたのだが、我が家においては父と上の姉が「ドイツ人」で「チャンコロ」の私を支配するというのが「それがみんなにとっての仕合せやねん」ということだった。「日本人」である母と下の姉は「ドイツ人」ではないので、「チャンコロ」を支配し命令する立場ではなく、母と下の姉はそれが不満だった。私が高校3年の時、母は「こいつ、私をなめとる」と言い、理解に苦しんだのだが、それは「チャンコロ」が「日本人」を「ドイツ人」より軽く見ているのではないかという不安だったのではないか。

   ところが、私が中学校の1年の時、上の姉が結婚して家を出て行った。そうなると、「父の同盟者」が家にいなくなった。「父」対「母−下の姉」という構図になると、「家族の政治学」において均衡が崩れたが、下の姉も、その後、結婚した。下の姉が家に帰ってきた時、父は「あんた、家に来ないでくれないか」と言ったことがあったが、それは下の姉は「母の同盟者」であり、「父の同盟者」である上の姉を失った父としては対応できなかったからということがある。私は依然としてどちらの側でもなかった。父としては「父−上の姉」という同盟関係を維持したかったようだが、上の姉は結婚して子供ができると子供の方に関心は行った。
   上の姉に生まれた子供は、上が娘で下が息子だった。父は「人間には、それぞれ、役割というものがある」と言い、「わしはドイツ人でアメリカ人。わしはいついかなる時も、ひとに命令しひとを支配しなければならないと神さまから命じられた人間で民族や」と言っていた。そして、「T子さんはしっかりしたお姉さん」と上の姉のことを言うのだがこれは同じ「ドイツ人」の同盟者をそう言ったものだ。「A子さん(下の姉)は素直な子」、要するに、便利使いによい、という意味である。「Yちゃん(姪。上の姉の娘)、これはかわいい」と。要するに、おもちゃである。そして、「あんたはチャンコロ。常にひとに支配され服従するのが使命の民族でR!」と私の鼻を指さして毎日毎日繰り返し言ったものだった。父が何か失敗した時、「わしのような偉人が失敗することはありえないのに失敗した、これはあんたが悪いんや。あんたのために失敗したんや」ということにするためのコマだったのだ。「失敗することなどありえないエライ人間」の父にとってはそういう存在がどうしても必要だったのだ。上の姉には娘が産まれた2年後に息子も生まれたのだが、父にとっては女の子の孫はおもちゃによくても男の子の孫はどうでもよかったようで、甥の方は何も言わなかった。別段、要らなかったのかもしれない。
   私が中学校の2年の時、下の姉がお見合いをして、一度はその人と結婚すると言ったものの、つきあっているうちに、その人と結婚するのは嫌だと言い出した時があった。その際、父は「おまえとあの人と、いったい、学校はどっちが上かあ下かあ〜あ。おまえは◇◇短大しか出ておらんだろうがあ。相手は関大やぞお。わかっとんのんか、おまえはあ。上かあ下かあ〜あ!」と何度も何度も言うのを聞いて、そして、私は、そういう学部にだけは自分は行きたくない。首をもがれても、経済学部(及び、商学部、経営学部)だけは行かされたくないと思うようになった。母の家系は学校の先生が多い家系で、「勉強する人」が好きな家系だった。だから、私も小学校の1年から学校の勉強はよくできた。母の叔母の夫婦が私が小学校の前半に住んでいた家の近所に住んでいて、母の叔母の夫は小学校の先生をしており、母がその叔母夫婦に私の小学校の通知簿(成績表)を見せたところ、その時、住んでいた「区」の隣の区の市立小学校の先生をしていた叔父(叔母のつれあい)が、「えらいええ成績やねんな」と驚いたというが、それだけの成績を小学校からとってきたのだから、父の言うような「上かあ下かあ」などというそんなしょーもない大学のちっぽけな学部には行かされたくなかった。しかし、父は「わしほどえらい人間はおらんねんぞ、チャンコロ。おまえはチャンコロでわしはドイツ人やねんぞ。わしとおまえは階級が違うねんぞ、階級が。わしはひとを支配する階級でおまえはわしのような人間から命令を受けてなんでもなんでも命令に従う階級やねんぞ。おまえはチャンコロやねんぞ、チャンコロ。わしはドイツ人としておまえのようなチャンコロに命令するのが義務であっておまえはチャンコロとしてわしのようなドイツ人に命令をうけてひたすらそのとお〜り、せっせっせとやるのがおまえにとっての仕合せというものやねんんぞ、チャンコロ。民族の違いを忘れてはならんぞ、階級の違いを決して決して忘れてはならんぞ」と毎日毎日言っていた。

   私が、慶應大学にいやいや行かされた後、父は私には「ぜいたくしてはならんぞ、ぜいたくしては」と言いながら、上の姉の所に、正月になると、姪にお年玉をやりにわざわざ行っていたので、「お年玉というものは、お正月に『今年もよろしくお願いします』と挨拶に来た人間に渡すもので、挨拶に来もしない人間に、わざわざ行ってやることないのと違いますか」と言うと、「やりたいねん」と言ってわざわざ年玉をやるために上の姉の所に行き、姪に年玉をやっていた。父としては「父の同盟者」である上の姉の所に行きたかったようだ。

   子供は何人がいいか。「ひとりっ子はよくないと思うがそんなに何人も育てる経済力はないので」ということで子供は2人という家庭が多いが、「2人兄弟だと、男2人か女2人だといいが、男と女の2人兄弟だとひとりっ子とたいして変わらないことになるから3人がいいんだ」と言うおっさんが、(株)一条工務店の福島県いわき市の営業所にいた時にいた。そのおっさんはそういう考えのもとに、子供を3人持ったというのである。そういう一面はあるのかもしれない。しかし、そうでない面もあるように思う。3人兄弟だと、父側が1人母側が1人で「親のない子」が1人できる。私がそれだった。
   上の姉は「父の同盟者」(「ドイツ人」)であり、下の姉は「母の同盟者」(「日本人」)になった。ところが、3番目の私には「父の同盟者」の椅子も「母の同盟者」の椅子もなく「支配されるための人間」「チャンコロの民族」の立場しかなかった。3番目が息子ではなく娘ならいくらか違ったかもしれない。娘なら、父親にとって「同盟者」の役割は上の姉がやったとして、姪がなった「おもちゃ」の役がまわってきていたかもしれない。ところが我が家は息子だったのだ。そうなると、父にとって、息子というのは「ライバル」になったのだ。「ライバル」はなんとしても自分より上にならせてはならなかった。「支配されるための民族」である必要があった。
   父は「わしは、同志社大学というりっぱなりっぱな大学をでてます」と言っていたのだ。それと、「会社っちゅうところではわしほどエライもんはないんやぞ」というこの2つが父の精神構造の平衡を保つ柱だった。ところが、大阪府で一番の進学校の北野高校に私が行ってしまった。このあたりから我が家の「不幸」は始まった。
    「週刊現代」だったか「ポスト」だったかに載っていた話では、大王製紙の2代目社長は北野高校から東大に行こうとしたが行けなくて慶應大に行った人で、息子にはなんとしても東大に行かそうとして東大に行かせた・・・・らしいが、その3代目がなんかしょーもないことしいやってもうたあ・・・・ということだったらしい。そんなもので、父親というものは、自分が人生でやりたかったこと、実現したかったことで、できなかったことを息子にはさせたい、実現させたいと思うものではないかと私は思い込んでいた。私自身も、もし、将来、息子ができたなら、自分はこういうことをやりたかったけれどもさせてもらえなかったが、息子にはこれをさせたいとか思うものはあった。 だから、父親というものはそういうものだろうと思い込んでいた。『あしたのジョー』では、ボクサーとして試合中に片目を損傷してボクサーができなくなって引退した丹下団平が、山谷のドヤ街で、若い男を見ると、「ボクシングしねえか。俺がコーチしてやれば、絶対、世界チャンピオンになれる」と口説き、近所のガキどもから「団平のおやじ、若い男なら誰でも世界チャンピオンになれると思ってやがる。おかしいんじゃねえのか」とバカにされるが、それでも、「ボクシングしねえか。おれがコーチしてやる」と言う。そこで出会ったのが矢吹ジョーだった・・・・。 相撲の高砂親方(元 大関朝潮)がスポーツ新聞に書いていたのだが、朝青龍を適切に指導できないのは親方が元大関の親方で横綱になっていない親方だからではないかと言われたが、それは違うと述べていた。元横綱の親方というのは自分は達成したという意識でいる、それに対して、大関まではなれたが横綱にはなれなかった親方というのは、いったい、どこがだめだったのか、どうすればよかったのかと力士を引退した後、いつまでもいつまでも考える。考えるなと言われても考えずにおれない。だからこそ、親方になった時、こうすればよかったのではないかと思うものを弟子に指導することができるのだと、そういったこをと書いていた。父親というのは、そういうものではないのかと私は思い込んでいた・・・・が、そうではない場合もあるということを、私は自分の父親を見て、特に大学受験を通して知った。
    父は「もし、もう一度、生まれて来ることがあったら、わしは岩城宏之さん(NHK交響楽団の指揮者)のようになる」と言っていた。「もしくは、朝比奈隆さん(大阪フィルハーモニー 常任指揮者)のようになる」と言っていた。自分がそう言うのなら、私が音楽家になりたいとか思ったとしても応援してくれてよさそうな感じがする・・・・が、そういう意識はまったくなかったようだ。私にはどう言ったかというと、「すべてを親コッコッコのために、ささげつく〜す! とってちってたあ〜あ♪」と言ったのだ。なんや、自分について言うことと私に言うことと、全然、違うやないか・・・・。「すべてを、会社のためにささげつく〜す。会社のために、会社のために、会社のために。撃ちてしやまん、一億火の玉。欲しがりません、勝つまでは! 木口小平はちんでもラッパをはなちまちぇんでちたあ〜あ! とってちってたあ〜あ!」と、毎日毎日、私の鼻の頭を指さして、「おまえはチャンコロでアール! おまえは服従の民族でアール! いついかなる時も、会社のために、会社のために、会社のために、会社のために。犠牲の精神。おまえは犠牲になることに喜びを感じる人間でアール!」と毎日毎日私の鼻の頭を指さして叫んでいたのだ。世の中には、自分がやりたいと思ったことでできなかったことを息子にさせたいと思う父親もいる一方で、息子は自分の「老後のための対策」であって、「そんなもん、音楽家なんてとんでもない」と考える親もいるわけだ。うちの父親はそういうおっさんだった。

    それだけなら、まあ、たしかに、音楽家とか画家とかいうのは、簡単になれるものではないかもしれないから、まだ、わからないこともない。しかし、それだけではないのだ。大王製紙の2代目は、自分が東大に行きたいと思ったが行けなかったということから、息子にはなんとか東大に行かせたいと思ったらしく、そう思う親は少なくないと思った・・・・が、我が家の父親はそうではなかったようだ。私が大学に進学する際、なんで、この人、こんなに妨害するのだろうかと思ったのだが、それは、そういう父親の意識を周囲の人間に見抜かれていて、その父親のニーズに合わせたことを吹き込む男がおり、それに従っていたということだと思う。
    まず、「父−祖母−上の姉」対「母−下の姉」という構図から、祖母が抜け、そして、上の姉が結婚して上の姉はこの世にはいても、離れた場所に住むようになり、父としては同盟者不在で不安な状態にあった。 その状態においては、「お父さんはえらい」「お父さんはたいへん」・・・等等言ってくれて寄ってくる人間は父にとってはありがたい人間! と受け取れたのだろう。その結果、外敵を引っ張り込むことになった。
    そういう外敵は、父が片方で、私が大阪で一番の進学校である北野高校に入学したのを喜びながら、他方で、私が独立自尊の精神をもって自ら人生の道を切り開いて進むことを父は望んでいないことを見抜いていた。そして、私がそのままでは父が自慢にしていて、おのれの存在を周囲に対して誇示しおのれを守る大事な条件である「このわしは同志社大学というりっぱなりっぱな大学を出てます!」というのが崩れてしまうのを怖れているということを見抜いていたのだ。
    北野高校に行った息子が京大なり東大なりに行ってしまうと、もはや、「わしほどエライ人間はおらんねんぞ。わしのようなえらいエライえらい人間の言うことは、どんなことでもどんなことでも、何でも何でも服従してきかんといかんねんぞ」と言っても通じなくなるということを、父は怖れているということを、周囲の外敵(少なくとも私にとっては外敵。父にとっては新たな同盟者)は見抜いていたのだ。 その結果、「東大なんか、行かさない方がいいですよ」とか、「関関同立くらいにでも行かせた方が本人のためですよ」とか言う人間が父の周囲に出てきたのだ。いくらなんでも、北野高校を卒業して関関同立はないだろうが、と普通は考えるが、そういう時に、「人間は学校で決まるものではない」とか「どの大学に行くかで人の値打ちは決まるものではない」とか、そういう一般論としては間違いとは言えないが、個別のケースにおいて見ると無茶苦茶な話を吹き込む外敵が複数父の周りに集合してきたようだ。
    私自身、北野高校に入学したころは、まさか、浪人してまで国立大学に落ちるとは思わなかったし、慶應みたいなもんそんなもんに行かされてしまうことになるなんて思わなかった・・・・が、浪人もした上で、慶應大なんて、実際問題として「格下の大学」に行かされてしまった。ところが、父としては、片方で「息子が慶應に行きましてん」と自分のためには(私にとっては気分の悪い話を)自慢してまわったものの、他方においては、自分よりも上の大学に行ったというのが不愉快だったようだ。その結果、いつしか、「わしはほんまは慶應やねんぞお」と言うようになった。 「わしはほんまは慶應やねんぞお。おまえとは違うねんぞ、おまえとは」と。 「ほんまは慶應やねんぞお」とはどういうことを言っていたのかというと、父は慶應大に行きたかったらしいのだ。それを、「わしも、もしも、家が貧乏でなかったら、慶應を受けさせてもらえたところや。もし、受けさせてもらえさえすれば、間違いなく慶應に通って行ったわ」と、そう言ったのだ、何度も何度も。それで、「おまえは拓殖じゃ!」と私に言ったのだ。「おまえはほんまは拓殖じゃ!」と。
   「わしは慶應で、おまえは拓殖やぞ。わかっとんねんな、拓殖。おまえは拓殖の人間で、おまえは拓殖の人格の人間やねんぞ、わかっとんねんな、拓殖。わかっとんねんな、拓殖」と何度も言っていた。「あんたはなあ、自分は慶應に行ったと思うとるやろうけれども、おまえがえらいから慶應に行ったのとは違うねんぞ。おまえは慶應に行くために何の努力もしとらんねんぞ。わしがえらいからおまえは慶應に行けたんやぞ。わかっとんねんな、チャンコロ」と何度も言っていたのだが、どうやら、それは、父の親友の医者屋のM川が父に言った文句を口にしていたようだった。M川はドバカ息子を「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで私立金権裏口毒盛関西医大に裏口入学させた、ということを自慢にしていた医者屋だった。「わしは、いつでも、バカ息子に言うたりますねん。 おまえがなんか努力したから大学に行けたんとは違うんやぞ。心得違いを起こすなよ。わしがえらいからおまえは大学に行けたんやぞ、とそう言うたりますねん」と父に言っていたようだ。父は「その通りですなあ」と思い、その通り、私にも言ったようだった・・・・・が、違いがひとつあって、私は裏口入学で慶應大に入れてもらったのではなかったのだ。父は慶應大に裏口入学させるようなカネもツテも持っていなかったし、私は、本来なら、東大か京大かに行きたかったのだ。 こちらはなんにも裏口入学なんかさせてもらってないのに、なんで、金権裏口毒盛医大と一緒にされにゃならんのだ!?!?!

   父が高校を卒業する時、「家が貧乏だったから、あんたみたいに、慶應なんか受けさせてもらえんかった」と何度も何度も私に言っていたのだが、父が生きていた時は「夫に逆らえない女」だった母はそれに同調していたはずだったが、父が他界して10年以上経つと、呪縛が解けたのか違うことを言いだした。 「あの人、よく、そんなこと言うねえ」と。はあ?
   母が言うには、「あの人、慶應を受けさせてもらえなかったのじゃなくて、受けたけれども落ちたから行けなかったんじゃないの。 私、結婚する前からあの人の家の近所に住んでたから知ってるよ。 慶應に行きたかったけれども、貧乏やったから受けさせてもらえなかったやて、よう言うわ。 あきれたこと言う人やねえ」と。どうも、そういうことらしい。
   「だいたい、『家が貧乏やったから』て、よく言うわ。結婚した時は戦争でだめになってお金のない家やったけれども、あの人が大学に行く頃はそうじゃなくて、おじいさん(父の父。母からすると義父)は船場の商社でものすごいやり手で、新聞に名前が出るような人やったんじゃないの。家に女中さんがいるような家だったじゃないの。何が貧乏やから慶應に行きたかったけれども受けさせてもらえなかったよ。よく言うわ」と。〔⇒《YouTube-三年目の浮気》https://www.youtube.com/watch?v=DgBvi-cZbJM 〕 そういうことだったらしい。私も、中学生や高校生くらいの時は、学歴を詐称する人というのはいるとしてもそんなに多くないと思っていたが、大学を卒業して会社という所に勤めると、学歴詐称したり資格を詐称してりする人なんてゴマンといるし、実際は落ちたから、できが悪いから行けなかったくせしやがって「家が貧乏やったから大学行かせてもらえんかってん」とかヌケヌケと言うヤツというのもゴマンといるということを知ったが、しかし、そういうことは、あくまでも、よその息子に言うものであって、自分の息子には「あんな話、本気にすんなよ」と教えてやるものであって、よその息子には言わずに自分の息子にそういうウソを言いまくる男がいるとは思わなかった・・・・・が、いたのだ。我が家に。
   で、父は「わしは慶應やねんぞ。おまえとは違うねんぞ、わかっとんねんな、拓殖。 わしは慶應の人格の人間で、おまえは拓殖の人格の人間やねんぞ、わかっとんのんか、拓殖、わかっとんのんか、拓殖!」とか言っていたのだが、まあ、私は慶應が嫌いだったので、だから、この人、「慶應の人格」なんだなと思っていた。「慶應タイプの女たらし」になりたいなりたいなりたいなりたい! とあこがれてなれない男というのもいるわけで、そういうのんかいなあ〜あ・・・とか思っていたのだが、それにしても、最初は「わしは同志社大学という立派なりっぱな立派な大学を出てます」と言うておったはずが、いつから、宗旨替えしたのかと思ったものだが、息子が慶應大に行ってしまうと、どうしても、「それより上の大学」でないと具合が悪かったようで、そこからきた宗旨替えだったようだ。

   それで、私は「ほんまは拓殖の人間」で「拓殖の人格の人間」だそうですが、父は「ほんまは慶應の人間」「慶應の人格の人間」らしく、そして、父の同盟者で「ドイツ人」であった上の姉は「T子さんは、ほんまは奈良女子大に通った人間やねんぞ。おまえとは違うねんぞ、おまえとは」と言うのだった。 「ほんまはT子さんは奈良女子大に通った人間やのにからに、おまえに落とされてんぞ、おまえに。おまえがT子さんを奈良女子大を落としてんぞ。ひとにせいにするなよ、おまえがT子さんを奈良女子大に行けんようにしたのにからに、そうやない、どんな条件があっても負けずに努力して大学は行くものであって、落ちたからといってどの条件が悪かったなんて言うものやないなどと言ってひとのせいにする者というのは、そういう人間のことを心理学では『外罰的性格』と言うねんぞ、わかっとんのんか。おまえがT子さんを奈良女子大を落としてんぞ。おまえが落としたのにからに、そうじゃないなんぞと言うようなそういう人間のことを外罰的性格と言うねんぞ」と父は何度も何度も私の鼻の頭を指さして言っていたのだった。そして、「たとえ、奈良女子大に行けなかったとしても、お金さえあれば、私立の4年制大学でもT子さんを行かせてやることができたんやけれども、おまえが生まれてきてしまったために、おまえを育てるカネが必要やったから、そのためにT子さんを4年制の大学に行かせてやることができんようになってしもうたんやぞ。 反省しろよ、チャンコロ。おまえがT子さんを短大しか行けんようにしてんぞ。 おまえが生まれてきったことがけしからんことやねんぞ。おまえさえ生まれなければ、T子さんは4年制大学に行かせてもらえたんやぞ。反省しろよ、チャンコロ。反省しろよ、拓殖!」と何度も何度も言っていたのでした。
    「おまえが生まれてきたために奈良女子大に行けなかった」「おまえに奈良女子大を落とされた」と父は言うのですが、いったい、私が何をしたのか? というと、私が生まれてきたために、私に手がかかってそのために応援してやれなかった、というのです。いったい、どんな応援してもらいたかったのか? 上の姉が高校を卒業したのは私が小学校の1年の時でしたが、もし、言ってくれたら、私にできる「応援」ならやったのに、と思ったものです。 たとえば、
《YouTube−コンバットマーチ(6人)  早稲田大学 応援 2013 》https://www.youtube.com/watch?v=waiBBVjToXA
・・・とか、なんか、↑なんてことをやってあげれば奈良女子大に通ったというのなら、言ってくれれば、小学校の1年生でもやってあげたのに、なんで、言うてくれへんねん・・・・と思ったものです。ほんと、言ってくれたらやったったのに。「応援」を。

    それで、私は長年にわたって不思議に思ってきたのです。 私が生まれてきたために、私さえ生まれてこなければ、「絶対に奈良女子大に通った」という人なら、その頃は国立大学には一期校・二期校というものがあったのだから、一期校で奈良女子大を受けて落ちてしまったのなら、二期校で奈良女子大よりもいくらか入りやすい所、その頃、住んでいた大阪市東住吉区から通えそうなところだと、和歌山大学とか大阪府立大学とか大阪教育大学とか、そういう所を受ければよかったのに、なんで、受けへんねん。「ほんまやったら、あんたが生まれてさえ来なかったら、絶対に奈良女子大に通った」という人なら、和歌山大学とか大阪府立大学とか大阪教育大学とかなら、たとえ、私が生まれてきてしまっても、それでも通ったのではないのか? なんで、受けへんねん? ・・・と長年、不思議に思ってきたのだ。
    ところが、それから、何年かして、女の兄弟が2人いると、片方が他方のウソをばらしたりするものらしく、下の姉が教えてくれたのだ。「あの人、私立の4年制も片手以上は受けてるよお」と。はあ? 何、それ?・・・・と思ったのだが、そう言えば、上の姉は「学大の試験の時に・・・・」とかいったことを話していたことがあった。東京には学芸大という大学があるが、大阪には「学なんとか大学」は存在しない。上の姉は大阪教育大のことを「学大」と言っていたはずなのだ。あれ? あれ? 実は大阪教育大も受けていてそれも落ちていたのだった。
    そして、ある時、記憶がよみがえったのだ。父は小学校の1年生なんて、そんな時期のことは覚えていないだろうと思い込んでいたようだが、実は小学生というのは覚えているのだ。私が小学校の1年の時、父と母と姉と一緒に、天王寺駅から関西線の快速に乗って奈良まで行き、帰りは近鉄に乗って鶴橋で環状線に乗りかえて帰ったことを。その際、奈良女子大に下見に行き、帰りには近鉄奈良線の小坂と永和の間にあった大阪樟蔭女子大にも下見に行ったことを。さらに、家でどこを受けるかという話をしていた時、私は横にいて、聴力障碍者ではないので聞こえていたのだ。武庫川女子大・プール女子学院大・神戸女学院大・神戸松蔭大・大阪樟蔭大の名前を記憶している。そのうち、どこを受けてどこを受けなかったのかは知らないが、武庫川女子大は受けたはずだ。 だめだったという話を聞いた記憶があるのだから。 だから、「たとえ、奈良女子大に落ちたとしても、おまえが生まれてこなかったら、おまえを育てる費用で私立の4年制大学に行かせてあげることができたのに、おまえが生まれてきおったために、短大しか行かせてやれなかった」というのはウソだったのだ。「おまえさえ生まれなければよかったのに。よくも、生まれておこってからに、このチャンコロめが。このチャンコロ。よくも、生まれてきおってからに。よ、く、も、生まれてきおってからに」と何度も何度も言われたものだが、そうではなかったのだ。私が奈良女子大を落としたのかと思っていたら、そうではなく、武庫川女子大なんてそんなものまで私が落としたらしかった。「よ、く、も、チャンコロウ! よ、く、も、チャンコロウ! チャンコロのおかげでえらいえらいえらいえらいドイツ人のT子さんが4年制の大学に行けんようにされてんぞお! ひとのせいにしてはいかんぞ、チャンコロ! おまえがT子さんを奈良女子大を落としてんぞ。チャンコロ! そんなもん、落ちた以上は落ちたのは落ちた人間が悪いとかそういうことを言うヤツのことを心理学では外罰的性格と言うんやぞ! わかっとんねんな、チャンコロ。 おまえがT子さんを落としたのにからに、落ちたのは合格最低点以上とらなかった本人が悪いなどとそういうことを言うヤツのことを外罰的性格と心理学では言うんやぞ! わかっとんねんな。 外罰的性格! おまえが落としたのにからにT子さんのせいにすんなよ。T子さんはドイツ人やねんぞ。ドイツ人のせいにすんなよ、チャンコロ! よくも生まれおってからに、よくも生まれおってからに、よくもよくも生まれおったな、このチャンコロめがあ! このチャンコロォ! この拓殖めがあ!」と何度も何度も言われ続けてきたが、私が落としたのは奈良女子大だけではなく、武庫川女子大やなんて、そんなもんまで私が落としていたようだった。

    父は「わしは同志社大学という立派なりっぱな大学を出てます」と言っていたのを、ある時から「わしはほんまは慶應やねんぞお」と宗旨替えをしたのだが、母は「同志社も、あの人、裏口と違うの」と言うのだ。 言われてみると、なんで、父はキリスト教の洗礼なんか、受けたのだろうかと不思議だった。母はキリスト教の洗礼を受けた人と結婚したからキリスト教の洗礼を受けさせられたのであって、もともと、キリスト教じゃなかったというのだ。
    父は、普段から、「共産党は全員、死刑にしろお。日教組は全員、刑務所にたたきこめえ。朝日新聞は発行禁止であ〜る」とか「ロスケどもをやっつけてや〜る!」とか家で叫んでいるおっさんだった。そういうおっさんが、なぜか「すべての宗教はアヘンであ〜る!」と、そこの部分だけ「教条的マルクス主義者」になったのだ。 へんなおっさんやな、と思ったが、その「宗教はアヘンであるとマルクスが言うておる」というのは、父の「親友」の医者屋のM川が父に吹き込んだものだが、まず、その医者屋のM川の理解が間違っている。
  高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)では、曹洞宗の僧らしい高神覚昇氏は、
(A) マルクスが「宗教はアヘンである」と言った時、その「宗教」はキリスト教やユダヤ教のような宗教を念頭においたもので、仏教のような宗教を念頭においたものではない、ということを指摘している。
  そういうこともあるだろうけれども、それより、蔵原惟人『宗教について』(新日本新書)で、日本共産党の宗教委員であった蔵原惟人氏が的確に指摘しているが、
(1)カール=マルクスは、「宗教はアヘンである」という表現を使ったかというと、『ヘーゲル法哲学批判序説』で、一度使用しており、エンゲルスは使用していない。レーニンも使用していない。
(2)この表現はマルクスが最初に使った表現ではなく、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現で、
(3)マルクスだけが使った表現ではなく、詩人のハイネ、哲学者のヘーゲルなども使っており、
(4)最初にこの表現を使ったのは誰かはわからないが、マルクスが最初に使ったものではなく、
(5)「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味があり、世の中の宗教には毒薬のような宗教も中にはあるが、マルクスは「宗教はアヘンである」という表現を「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で使用しており「毒薬」という意味では使っていない。マルクスは「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである。しかし、それは幻覚である」と述べ、「なぐさめとしての幻覚を必要とすることなく、生きた喜びをつかめる社会を築けば、なぐさめとしての宗教は必要なくなっていく」ことを述べた上、「なぐさめを必要としない誰もが現実の世の中で生きた喜びをつかめる社会を築くことなく、なぐさめだけを取り上げるようなことは決してしてはならない」と述べている、と指摘している。
だから、父に医者屋のM川が吹き込んだ「すべての宗教はアヘンであーる!」という「教条的マルクス主義」みたいなへんてこりんな理屈は、まず、『ヘーゲル法哲学批判序説』のマルクスの文章の理解を間違えているのです。(ついでに、「朝日の記者は刑務所にたたきこめえ」とかおっさんは毎日のように家で叫んでいたわりに、我が家では朝日新聞を継続的に購読していたのは、それはなんでかというと、「巨人はずるい! 読売は悪い!」「読売新聞、巨人新聞は許せん! けしからん!」という方が優先していた・・・みたい。)
    しかし、その「すべての宗教はアヘンでアール! 焼〜き打ちじゃあ。 焼き討ちじゃあ、焼〜き打ちじゃあ〜あ!」と叫び続けていた(家の中でだが)焼き討ち織田信長大好き人間が、なんで、キリスト教の洗礼うけんの? ・・・・と、長年、不思議でしかたがなかった・・・のだが。 母が言うには「たぶん、同志社に入る時、牧師の◇◇先生に口をきいてもらったんじゃないかと思う」と言うのだ。  昔から、キリスト教系の高校とか大学に入るためにキリスト教の洗礼を受ける人というのは珍しくない。 もともと、キリスト教に縁がある人が、進学の機会に洗礼を受けるのなら悪くもないと思うが、入学するためだけに受けるというのなら、どうかなとも思う。 YMCA予備校高槻校にいた「主事」というよくわからん職種のF井は、「聖書なんてあんなもん、いいことなんて何ひとつ書いてないんやから。 あんなもん、読むものと違うんや。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。 聖書なんて、あんなもん、読まんでも、洗礼を受けて日曜ごとに教会に行って献金はらっておけばそれでいいことなんや。聖書なんて読んではいかん。 たとえ、読むにしても、歳いってから読んで、はあん、そんなもんかと思えばいいことであって、若い頃に読むものとは違う。若いころに聖書は読むものと違う。あんなもん、読むものと違う」と何度も何度も言う男だったが、それがキリスト教系の団体であるYMCAがやっているYMCA予備校で「主事」という職種についていた「敬虔なクリスチャン」だった。そういう人のことを「敬虔なクリスチャン」とか「YMCAで主事やっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない、相当にえらいクリスチャン」とか言うらしい。私はそのF井を見て「クリスチャン」というものが嫌いになった。そもそも、そんなこと思っているなら、何も洗礼うけなくたっていいのじゃないのか、と思ったが、洗礼うけるとYMCA予備校で職業にありつけたらしい。そういう「クリスチャン」はけっこういるようだ・・・から、もしかすると、父もその類だったのかもしれない・・・が、それにしては、おっさん、よくもいろいろ言ってくれたものだと思う・・・が、ひとの父親を見て、いいお父さんだなと思うことはあったが、そうであっても、その人が自分の親ではなく、困ったおっさんでもそのおっさんが自分の父親だったのだからしかたがない。 だから、私が生きている間は、そのおっさんの墓参りは何か月に1回くらいはするだろう・・・・が、私が死んだら、その後は、それは知らん。
   「宗教はアヘンであるとマルクスは言うておる」とか吹き込み、宗教哲学に関心があった私にその方面への進学を妨害しようとした父の親友のM川は、金沢大医学部卒で阪大医学部の大学院に行ったと自称していたようだが、それは嘘くさいと今は思っている。その男もドバカ息子と同じく関西医大裏口入学か、もしくは、金沢には金沢大医学部と別に金沢医科大学だかいう私立大学があるからそこか、その程度の類の可能性が高いと思う。実際、学歴詐称の男なんてそのへんにごろごろいるが、今の私と同じくらいの年齢だった父がそれをまったくわからなかったということは、あのおっさん、あんまり賢くなかったようだ、と判断せざるをえない。
    上の姉は、「応援」さえしてあげれば奈良女子大に間違いなく通ったらしいが、私なら大学入試において、別に「応援」なんてやってもらう必要はない。 ↑のコンバットマーチなんてやって要らんし、ついでに、↓もやって要らんからな!↓
《YouTube-慶大・最終回の応援『若き血』 【早慶戦2回戦】》https://www.youtube.com/watch?v=yo8JryrQj98
やって要らんぞ、そんなもん!
  〔2017.6.11.(日) 父の日の1週間前〕 

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「父の日」に思う。 奈良女子大受験生の人、弟に「応援」してもらいたいですか? 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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