哲建ルンバ

アクセスカウンタ

zoom RSS 大覚寺・大沢池・名古曾滝【3】庭湖館・霊明殿・御影堂・心経殿・唐門。慈性親王は殺されたのか?

<<   作成日時 : 2017/04/15 19:56   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

[第283回]
   「嵯峨山 大覚寺」と言うよりも、「旧嵯峨御所 大覚寺」と言った方が実態に近いと思える大覚寺。 「順路」として宸殿、正寝殿(しょうしんでん)と進むと、その背後に、西寄りに、庭湖館、その後ろに貴賓館・秩父宮御殿。 右(東)奥に、霊明殿があり、庭湖館、貴賓館・秩父宮御殿、霊明殿に囲まれた位置に庭園があって、その後ろの方に稲荷社があります。

   「庭湖館」。↓
画像

≪ 江戸中期に建てられた大沢池畔にあった休憩所で、明治元年(1868年)、現在地に移築されました。・・・≫(現地での説明書き)


   貴賓館・秩父宮御殿。↓
画像

(↑ 貴賓館・秩父宮御殿と庭園。)
≪ 大正12年(1923年)、当時 東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられたもの。 昭和46年(1971年) 大覚寺に下賜されました。 昭和48年(1973年) 移築復元され、現在は大覚寺の貴賓館です。・・・・≫
(現地での説明書き)

   「霊明殿」。↓
画像

(↑ 南西側、宸殿の側から見た 霊明殿。)
画像

(↑ 御影堂の側(南東側)から見た 霊明殿。)

  現地での説明書きによると、1936年(「ひどく、寒い 2・26事件」)の2・26事件で殺された斎藤実(さいとう まこと) 内大臣(1935−1936 内大臣)〔1932年−1934年 内閣総理大臣〕が、昭和3年(1928年)〔1931年(昭和6年)(「ひどく災、満州事変」)の満州事変の3年前〕〔1932年(昭和7年)、「ひどく醜い 5・15事件」の5・15事件の4年前〕、 東京 沼袋に、班目日仏 僧正を頼み「日仏寺」として建立したが、昭和17年(1942年)頃 百草園に移築。 その本堂の「霊明殿」を昭和33年(1958年)に、班目日光僧正の寄進によりこの地に移築されたもので、正面に本尊の阿弥陀如来、右側に草繁門跡をお祀りしている、ということらしい。
※ 《ウィキペディア−斎藤実》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F
   「沼袋」てどこなんだ? 池袋とは違うのか? と思って、インターネットで検索すると、西武新宿線に「新井薬師前」と「野方」の間に「沼袋」という駅があるようで、東京都中野区に「沼袋」という住居表示があるらしい。
※ 《ウィキペディア−沼袋駅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E8%A2%8B%E9%A7%85
画像

↑ 廊下の板の色が独特の色をしているが、どういう着色なのだろうか・・・・。

   庭湖館・秩父宮御殿・霊明殿に囲まれた位置の庭園とその後ろの稲荷社↓。
画像


   「御影堂(みえどう)」
画像


( ↑ 「 i 」マークが御影堂。)
   「御影堂」とは何ぞや?  本願寺では御影堂では親鸞の像が安置されているのですが〔《浄土真宗本願寺派 本願寺HP 建造物》http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/guide01.html#ken02 〕、大覚寺は真言宗。 お寺では「開山堂」といって開山の僧を祀るお堂があることがありますが、大覚寺は、最初は嵯峨天皇の山荘だったということで、最初から寺として作られたものではないわけで、「御影」とは誰の姿のことなのか?
    大覚寺HPの「境内のご案内」 https://www.daikakuji.or.jp/precincts≪ 心経殿の前殿であり、内陣正面は心経殿を拝するため開けてある。内陣左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方々の尊像を安置する。≫と書かれています。
    ≪ 大正14年(1925年)建造。大正天皇ご即位に際し建てられた饗宴殿を式後賜り移築したもの。≫(大覚寺HP 「建造物のご案内」http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/guide01.html#ken02 )らしい。 1925年(大正14年)といえば、「ひどく不合理、治安維持法」の治安維持法が制定された年。 1923年(大正12年)の関東大震災の2年後。

   「勅封心経殿」(「心経殿」)
画像

   大覚寺の特徴として、般若心経の写経と華道がおこなわれているという点があるのですが、般若心経の写経の方は、本堂である五大堂で今もおこなわれているようですが、「心経殿」は、五大堂ではなく御影堂の背後にあります。
   大覚寺HPの「境内のご案内」 https://www.daikakuji.or.jp/precincts によると、≪ 大正14年(1925年)、法隆寺の夢殿を模して再建。≫で、≪ 殿内には嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経を奉安し≫ており、≪薬師如来像が奉伺されている。≫らしい。 1925年(大正14年)と言えば、1925年(「ひどく、不合理、治安維持法」)、治安維持法が制定された年。

   「霊宝館」(「収蔵庫」)
画像

   「御影堂」の右後ろ、「心経殿」の右側(東側)に「霊宝館」(「収蔵庫」)がある。 『古寺を巡る29 大覚寺』(2007.9.4.小学館)に掲載の「大覚寺境内地図」では「収蔵庫」と書かれているが、大覚寺HPの「境内のご案内」 https://www.daikakuji.or.jp/precincts では「霊宝館」と記載されている。
   『古寺を巡る29 大覚寺』(2007.小学館)によると、大覚寺には3組の五大明王像が伝えられており、現在、五大堂に安置されている五代明王像(中央に不動明王、左に大威徳明王、軍荼利(ぐんだり)明王、右側に降三世(ごうざんぜ)明王、金剛夜叉明王)は、1975年(昭和50年)に松久朋林(ほうりん)・宗琳(そうりん)によって造像されたもの。 最も古い1176年〜77年に、定朝を祖とする三派のうち円派(えんぱ)のリーダー的存在であった仏師 明円(みょうえん)がつくった五大明王像(不動明王・降三世明王像・軍荼利明王像・大威徳明王像・金剛夜叉明王像)は評価が高く、いずれも重要文化財に指定されている。 もう一組の鎌倉〜室町時代に作られた五大明王像のうち、不動明王像と軍荼利明王像は京都国立博物館に寄託されていて、他の3躯と明円作の五大明王像とが「霊宝館」(「収蔵庫」)に安置されているらしい。 「・・・らしい」というのは、霊宝館の閉館時刻が寺の参拝終了時刻よりも早いため、今回、見学することができなかったので、「・・・らしい」である。 境内はけっこう広いので、参拝は、早めの時刻に訪問するようにした方がよい。
   五大明王とは、《ウィキペディア−五大明王》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%8E%8B を見ると、≪ 彫像、画像等では、不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜ - )、南に軍荼利明王(ぐんだり - )、西に大威徳明王(だいいとく - )、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃ - )を配する場合が多い。≫ ウィキペディアや《コトバンク−五大明王》https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%8E%8B-65078 とかを見ると、この5者を五大明王とすることが多いらしい。 大覚寺でも、現在、五大堂では、中央に不動明王、その左側に左から大威徳明王・軍荼利明王、右側に不動明王の右に降三世明王・金剛夜叉明王と並んでおり、明円作のものもこの5者であるが、もう1つの鎌倉から室町時代に作られたというものは、京都国立博物館に寄託されているのが不動明王と軍荼利明王で、『古寺をめぐる29 大覚寺』に写真が掲載されているのは、大威徳明王(重要文化財)と愛染明王、それに毘沙門天だが、愛染明王が金剛夜叉明王か降三世明王のかわりにメンバーに入っているのか、そうではなく、『古寺をめぐる29 大覚寺』(小学館)で、たまたま、写真に掲載する像に愛染明王と毘沙門天を選んだだけなのか・・・・。 もっと早く訪問すれば、霊宝殿で見て確認することができたのだが、残念。 できれば、再訪して確認したい。


   「唐門」(「勅使門」) ↓
画像

( ↑ 宸殿から見た 唐門)
画像

( ↑ 五大堂から見た 唐門)

( ↑ 「 i 」マークが唐門〔勅使門〕 )
   ≪ 1間1戸、四脚門(しきゃくもん)で屋根は切妻造り、全体が素木造りのなかに、漆塗りの軒唐破風(のきからはふ)が印象的。 嘉永年間(1848−54)に再建。≫(『古寺を巡る29 大覚寺』2007.小学館)
   『古寺を巡る29 大覚寺』によると、大覚寺最後の宮門跡 有栖川宮 慈性入道親王(ありすがわのみや じしょう にゅうどう しんのう)が、江戸の東叡山輪王寺の門主の後継として移る際に、名残を惜しんでふり返った、ということから「おなごりの門」と言われるらしい。≪ ・・・幕府は朝廷を動かし、大覚寺に勅命が下った。・・・十年ほどで必ず帰住するという別れのことばを残して、慈性門跡は唐門から輪王寺へと出立した。 門跡は、なごりおしそうに何度も振り返ったという。「おなごりの門」の呼び名には、そのときの無念さが込められている。≫(『古寺を巡る29 大覚寺』2007.小学館 「謎と発見 「おなごりの門」に秘められた幕末の謎」 )
   幕府が朝廷を動かして勅命により移動させられたが、真言宗の大覚寺から天台宗の東叡山輪王寺へ法流を無視した人事の強行には、南朝の寺 大覚寺の青年門主が、いつか、尊王反幕府運動の中心人物となるかもしれないと幕府が危惧したのではないかとも言われたらしく、又、1867年、慈性入道親王は上野の森で死亡し、茶毒のせいと言われたが、暗殺されたという噂もたったらしい。≪ 幕府が法流を無視した人事を強行した理由のひとつに、慈性入道親王のなみなみならぬ英邁さを危惧したのではという説がある。国学、水戸学で培われた尊王論が、ようやく現実の思想として力をもちはじめていた時期である。 南朝の寺、大覚寺の青年門主は、いつか尊王反幕の中心人物になるかもしれない。 幕府のその判断が、慈性入道親王を幕府のひざ元の上のに呼び寄せたというのである。 実際、輪王寺門主となった慈性入道親王は、その後、常に幕府の批判勢力として注目された。1884年(元治1)には、江戸城に登城して将軍や老中に、長州征伐を中止し、長州藩主父子を寛大に処すよう説いている。長州藩は尊王攘夷の急先鋒であった。 ≫
   もっとも、大覚寺は「南朝の寺」だったかもしれないが、江戸時代末期に宮門跡として大覚寺の門主となっていた慈性親王は南朝・大覚寺統の皇族だったのか? 慈性親王は持明院統の皇族だったということはないか・・・と思ってインターネットで検索すると、慈性入道親王は、有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の子で、有栖川宮韶仁親王は有栖川宮第7代当主で光格天皇の猶子になった人らしい。その頃の天皇は北朝・持明院統の天皇のはずですから、それから考えると、慈性親王もまた北朝・持明院統の皇族ということになるでしょう。 江戸時代末期においては、「持明院統」の皇族が大覚寺の門主になっていたわけですが、その頃、「尊王攘夷派」がかつごうとしていた天皇も北朝・持明院統の天皇であったわけで、もし、江戸幕府が慈性親王を江戸に呼んで目を光らせておこうと考えたのなら、「南朝の寺」の門主だからということでもないのではないか。
   そして、慈性親王が大政奉還の前年に京都に帰りたいと思いながら他界したが、殺されたのではないかとも言われたというのは、誰からなのか? ≪ 明治を迎える前年の1867年(慶應3)5月、ようやく隠居願いが聞き届けられたが、帰洛の準備中の11月24日、慈性入道親王は上野の森で死亡した。 暗殺にちがいないと噂された。幕府の発表は12月7日、江戸では普請3日、鳴物7日、大坂では「ええじゃないか」の踊りが停止(ちょうじ)された。・・・・≫(『古寺を巡る29 大覚寺』所収「謎と発見 「おなごりの門」に秘められた幕末の謎」) ≪そその死は、おsれだけ大きな衝撃を与えたのである。≫(同)というが、もしも、慈性入道親王が暗殺されたのであれば、誰が殺したのか? 暗殺されたのではなかったとしても、≪暗殺にちがいないと噂された≫という噂は、誰に、どういう相手に暗殺されたという噂だったのか?
   「尊王攘夷派」は、実は「尊王」と言いながら、「天皇」の名前を出すことで自分たちの主張をひとに「言うことをきかす」ようにしたがっていただけで、実際に、自分たちは尊王などの意識は昔も今もないのであり、その天皇や皇族が自分たちの主張を受け入れない時には、「尊王派」が天皇や皇族を殺すことも考えられたわけで、討幕に消極的だった孝明天皇は尊王攘夷派に殺されたのではないか、そして、14歳の少年だった明治天皇が即位させられたのではないかという話もあったようで、又、明治天皇は、実は即位の際に別人とすり替えられたという説もあるらしい。それらは、そういう話があったということで、確定的な話ではないわけだが、ありそうとも思える話ではある。慈性親王が1868年の大政奉還の前年の1867年に他界したのが、もし、殺されたというものであったとしたら、それは誰になのか? 実際には殺されたのではなかったとしても、殺されたのではないかという噂がたったというその噂は、誰に殺されたという噂だったのか?・・・・

   唐門は、見るからに、「エライ人が通る門」て感じ、「あんたなんか、ここは通ったらあかんねんで」と言われそうな門で、実際、一般参拝者はここは通らない。・・・どこからでも入れれば、「特別エライ人だけが通っていい」という門なんて別に通してもらわなくてもいいけどね・・・・。誤って壊したりしたら怒られそうだし・・・・。
画像

   ↑ 南から見た 「唐門」
  「おなごりの門」であっても、開かずの門というわけではないらしい。 帰り、南側を通ったところ、参拝時間終了の頃で、お寺の方が、何かの準備をされていたためか、唐門が開いているところを見ることができた。

※ 旧嵯峨御所 大覚寺 HP 「境内のご案内」https://www.daikakuji.or.jp/precincts/
大覚寺 HP https://www.daikakuji.or.jp/
《ウィキペディア−大覚寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA

☆ 今回掲載の写真は4月9日撮影です。

   次回、五大堂・安井堂・大沢池 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_4.html

   (2017.4.15.)


☆ 大覚寺・大沢池・名古曾の滝
1.大覚寺参道、覚勝院。「持明院統」と「大覚寺統」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_1.html
2.宸殿・正寝殿ほか http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_2.html
3.庭湖館・霊明殿・御影堂・心経殿・唐門。慈性親王は殺されたのか?〔今回〕
4.五大堂・安井堂(御霊殿)。五大堂と大沢池と桜。五大明王とは。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_4.html
5.大沢池、名古曾滝跡と「女ひとり」。「君が代」は音楽的に良くない理由 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_5.html
6. 大沢池東岸より。JR「嵯峨嵐山」駅、阪急「嵐山」駅他。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_6.html

☆  「大原 三千院」と「栂ノ尾 高山寺」の写真は、[第80回]《橋下徹の君が代強制礼拝式の当日は、海外旅行へ行こう、or、そうだ 京都 行こう。》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201202/article_1.html に掲載しましたので、ご覧ください。


京都 (ブルーガイドてくてく歩き)
実業之日本社

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 京都 (ブルーガイドてくてく歩き) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



建築MAP京都mini
TOTO出版
ギャラリー間

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 建築MAP京都mini の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



天皇制 (東大新書 (6))
東京大学出版会
井上 清

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 天皇制 (東大新書 (6)) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
大覚寺・大沢池・名古曾滝【3】庭湖館・霊明殿・御影堂・心経殿・唐門。慈性親王は殺されたのか? 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる