哲建ルンバ

アクセスカウンタ

zoom RSS 大覚寺・大沢池・名古曾滝【1】 大覚寺参道、覚勝院。「持明院統」と「大覚寺統」

<<   作成日時 : 2017/04/15 19:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

[第281回]
  “ 京都、らんざん大覚寺〜♪ 恋に疲れた女がひとり〜♪ ” の大覚寺に参拝してきました。 私が中学生や高校生くらいの頃、「京都、大原 三千院♪」というと、たいていの人がこの文句を知っていたのですが、最近の20代くらいの人に言っても、京都は知っていても、大原や三千院は知らない人がいます。 それだけ、歳いってしまったのかとも思いますが、「大原 三千院」「栂ノ尾 高山寺」と並ぶその「嵐山(らんざん) 大覚寺」に行ってきました。
※ 《YouTube―デューク・エイセス 女ひとり 2014 》https://www.youtube.com/watch?v=25RJjgKOGdI
↑ デュークエイセスも、かつては、もっと歌がうまかったように思ったのですが、年齢をいってしまったこともあってか、2014年の↑の歌唱は残念です。これなら、俺の方がうまい。 オリジナルでない石川さゆりの↓
《YouTube―女ひとり  石川さゆり 》https://www.youtube.com/watch?v=DzmKeb5veS4
の方が、まだしも聴ける・・というのは、デュークエイセスの歌を聴き馴染んだ者としては残念な気がします。

   大覚寺は、真言宗大覚寺派の大本山。 京都市右京区嵯峨大沢町 にあり、最寄駅というと、JR山陰本線「嵯峨嵐山」駅になるでしょうけれども、京福電鉄嵐山線「嵐山」、阪急嵐山線「嵐山」から歩くのも、それほど混雑していない時期なら悪くないでしょう。 今回は、阪急「嵐山」から歩き、帰りはJR山陰線「嵯峨嵐山」から帰りましたが、桜の季節だけあって、阪急「嵐山」から京福「嵐山」を経てJR山陰線の線路のあたりまではずいぶん混雑していました。
※ 大覚寺HP「大覚寺について」 https://www.daikakuji.or.jp/about/
《ウィキペディア―大覚寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA

画像

↑ 大覚寺 参道。

   ところで。 「京都 嵐山 大覚寺♪」という歌の文句では、「嵐山」を「らんざん」と歌っています。 一般には、「嵐山」は「あらしやま」で、阪急嵐山線の駅名も京福電鉄嵐山線の駅名も、かつては「嵯峨」駅だったのが「嵯峨嵐山」駅と駅名変更したJR山陰線の駅名も読みは「あらしやま」ですが↓、
画像

(↑ 阪急嵐山線「嵐山」駅の表示。)
永六輔作詞・いずみ たく作曲「女ひとり」の歌詞では「らんざん」です。
   な〜んでだろ?  と不思議に思ってきたのですが、もしかして、地名としては「あらしやま」だけれども、お寺には、寺の名称とともに、山号というのがあって、元は、禅宗のお寺がたいてい山にあったことからその山の名前と寺の名前を合わせて「〇〇山◇◇寺」と呼んだのが、いつしか、禅宗以外の寺でも、平地にある寺でも「〇〇山◇◇寺」と呼ぶようになったらしいのですが、その「〇〇山◇◇寺」というのが、「嵐山(らんざん) 大覚寺」なのだろうか? ・・・・それなら、わかる・・と思ったのですが、森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(2005.10.8.淡交社)を見ると、≪山号は嵯峨山(さがざん)。≫と書かれています。 大覚寺HP「大覚寺について」 https://www.daikakuji.or.jp/about/ を見ると、≪正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。≫と出ています。
   嵯峨・嵐山地域で知名度の高いお寺というと、大覚寺と天龍寺ではないかと思うのですが、天龍寺の方の山号が「らんざん」だった・・なんてことないか? と思って、やはり、森谷尅久監修・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(2005.10.8.淡交社)を見ると、天龍寺は≪山号は霊亀山。≫と出ています。 

   「嵯峨山 大覚寺」は真言宗大覚寺派の大本山、「霊亀山 天龍寺」は臨済宗天龍寺派の大本山ですが、「女ひとり」では、1番目に京都の北東側の大原の三千院が選ばれ、次に北西側の栂ノ尾高山寺が選ばれ、そしれ、洛西、嵐山の大覚寺が選ばれたのですが、洛西、嵯峨・嵐山地区の寺で、天龍寺ではなく大覚寺が選ばれたのはなぜだろうか。 まず、恋に破れた人間とか事業に失敗した人間とかがどこかに行くとすると、たいてい、北の方向に行くことが多いという説があるわけです。 東京もんが作ったテレビドラマでは、たいてい、上野駅から東北本線に乗って青森駅のプラットホームで降りて、「ああ、とうとう、こんな所まで来てしまったんだ」とかつぶやく・・・というそういうのが「定番」みたいになっているわけですが、これなんかは、落ち着いて考えてみると、青森県民からすれば、ずいぶんと失礼な話であり、「とうとう、こんな所まで来てしまったんだ」て、そんなに嫌なら来るなっちゅうんじゃい!無礼者! て感じ。 「上野発の夜行列車、降りた時から、青森駅は雪の中〜♪」とか、「つんがる海峡冬景色」なんて歌もありますが〔⇒《YouTube-108 石川さゆり「津軽海峡・冬景色」》https://www.youtube.com/watch?v=ZBGeecgjinM 〕、青森県民からすれば、そこまで嫌なら来ていらんけど・・・て感じ、しませんか? (さらに。「津軽海峡冬景色」なんて歌が作られ、下北半島を歌った歌は作られないというあたり、もしかして、青森県では、津軽半島側には青函トンネルを作って発展させて、下北半島側に原発や核処理施設を作ってゴミ箱にしようととした勢力があり、その頃から津軽半島側の方が下北半島側よりも政治的に強かった・・・なんてことないか? とか感じたりしません?)
   で、「女ひとり」で、「恋に疲れた女がひとり」行く所も、京都の北側3カ所であるわけです。 大原 三千院と栂ノ尾 高山寺はわかるのですが、嵯峨・嵐山地区のお寺としては、天龍寺ではなく大覚寺が選ばれたのはなぜか? あなた、こんなこと考えたことない〜い? これ、考え出すと、今晩、寝られなくなっちゃうね!
   「名古曾の滝」の文句を入れたかったからか? とも思えますし、単に、永六輔の好みだったのかもしれませんが、ひとつには、天龍寺というのは、京福電鉄嵐山線の「嵐山」駅の目の前で、中学校の遠足とかですと、バスで天龍寺のあたりまで来て駐車場もその近くで停められて降ろされて団体で移動させられますし、今回、阪急嵐山線の「嵐山」駅から行きましたが、阪急「嵐山」駅から保津川の中之島、渡月橋を経て京福電鉄「嵐山」駅からJR山陰線の線路のあたりまでは、桜がいっぱい咲いていることもあったかもしれませんが、観光客がい〜っぱいいて、特に、外国人、韓国人・中国人も多ければ白人の観光客、英語でもなしイタリア語でもなしフランス語でもなしロシア語でもない欧米系の言葉を話す白人の観光客とかがわんさといて、あんまり、「恋に疲れた女がひとり」行くような感じではなかったのに対し、大覚寺は、阪急の駅からも京福電鉄の駅からもJRの駅からもいくらか離れていて天龍寺付近ほど人が多いわけではないので、「恋に疲れた女がひとり」行くには悪くないから・・・・なのか・・・どうかわかりませんが、まあ、天龍寺付近と大覚寺付近なら、「恋に疲れた女がひとり」行くならば大覚寺付近の方が似合うような気もしないではありません。 女でなくても男でも、恋以外のものに疲れた者が行くのも悪くはないと思いますが、もっとも、桜の季節というのは、どうも、桜という花はきれいではあるのですが、「恋に疲れた」者、あるいは、恋以外のものに「疲れた」者にとっては、はなやか過ぎるような感じがしてしまうようなところがあります。
   「大覚寺参道」交差点から北へ進みます。↓
画像

   東に「覚勝院」があり、西に大覚寺のバスターミナルがあり、その北に大覚寺が見えてきます。↓
画像

   「嵯峨山 大覚寺」は何宗かというと、真言宗大覚寺派の大本山・・・・のわりに、中に入って見ると、あんまり、お寺て感じでもない。 それは、なぜかと尋ねたら・・・・、『改訂版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』(2007.10.8. 8版。 淡交社)によると、大覚寺は、≪ 貞観18年(876)に淳和天皇の皇后(嵯峨天皇の皇女)が、父の嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺に改めたことに始まる。 ≫らしく、最初は、空海・橘逸勢とともに「三筆」の1人として有名な嵯峨天皇の山荘だったらしい。
   ≪  ・・・皇室内部にも、しだいに細ってゆく所領を争って、深刻な対立と分裂が生じていた。 すなわち1259年、後嵯峨天皇が長子の後深草天皇をしりぞけ、次子の亀山天皇を位につけてから、後深草と亀山の対立が生じ、持明院に住んだ後深草の系統(持明院統)と、大覚寺に隠居した亀山の系統(大覚寺統)とが、皇位をめぐって深刻にあらそった。 幕府はそれに介入して、1308年、両統が交互に皇位につくことにしたが、幕府の介入が自派に不利な大覚寺統は、反幕的になった。 大覚寺統の後醍醐天皇は、1318年に即位、ひそかに幕府打倒を志し、側近に北畠親房(1293−1354年)をはじめ人材を登用した。・・・・≫(井上 清『日本の歴史 上』1963.9.25.岩波新書 「9 鎌倉幕府の滅亡」 )
〔  1970年代後半、『受験の日本史』聖文社 という月刊誌に「大学入試のために読んでおいた方がよい日本史の本」として、その筆頭に出ていたのが、井上清『日本の歴史 (上・中・下)』(岩波新書) で、私も読まないといけないものかと思って読んだが、今、インターネットで検索すると、「中」は新刊書で手に入るが、「上」と「下」は古書では手に入るものの、新刊書は絶版になっているらしい。 時の流れというのか、何というのか・・。 柴田孝之が『東京大学機械的合格法』で、「読む必要がない本」にあげていたが、受験対策そのものとして「要らない」という見方もあるかもしれないが、受験が迫った時期ではなく、それより前に、「読み物」くらいの感覚で日本史を一通り理解する本としては、私は今でも悪くない本だと思っている。 柴田孝之『東京大学機械的合格法』はもっともと思えるものが多いと私は思ったが、柴田自身が言っているように、誰が言うことであれ、どんな権威が言うことであれ、自分が要らないと思ったものは要らないし、自分が要ると思ったことはやるべきで、「あえて少数派になる勇気」がある者こそ高得点を取ることができる者である、というのはもっともである。柴田が井上清『日本の歴史 (上・中・下)』岩波新書 なんか読まなくていい、と言ったから読むべきではないと決まったわけでもない。読みたいと思えば読んでいいのだ。 というよりも、柴田孝之自身が、『司法試験ゼッタイ合格の秘訣』だったかで、司法試験(今はなくなった旧型司法試験)に合格するために読んで役立つ一般書として、青木雄二『ナニワ金融道』をあげていたが、『ナニワ金融道』は、筆者が実際に街金に勤めた経験をもとに書いたものらしく、なかなかおもしろいけれども、だからといって、憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法の本を読まずに『ナニワ金融道』をいくら熟読しても司法試験(旧型司法試験)に通るというものではないが、柴田は「読むといい本」としてあげている。 井上清『日本の歴史 (上・中・下)』も、そのくらいの気持ちで読むならば、「読むといい本」と言えると私は思う。そして、『ナニワ金融道』と司法試験(旧型司法試験)の試験問題との関係よりは井上清『日本の歴史 (上・中・下)』岩波新書と大学入試の日本史とのつながりの方が、つながりは大きいと思う。
   1970年代後半、「Z会旬報」に「各科目の学習法」というのが載っていて、そこの「数学」で、遠山啓『数学対話』(岩波新書) などが「読んでおくとよい本」として載っていた。 そういう文庫本・新書本などで、数学とは・・・というような根源的な本、「高校の数学んぼ本」というより「数学そのものの本」も読むべきだということが書かれていて、私も、そうだよなあと思って、矢野健太郎『数学物語』(角川文庫)、吉田洋一『零の発見』(岩波新書)、遠山啓『数学の学び方・教え方』(岩波新書) を読んだりしたが、北野高校で1年の冬休み、冬休みの課題の数学の問題集をそっちのけにして、こういったものを読み、問題集もやらなきゃと思って手をつけたものの、あ、あ、あ、あ〜あと思ううちに「宿題テスト」の試験日がきて、宿題テストの成績はさんざんだった、ということがあったが、まあ、高校の課題をそっちのけにしてそういう本を読むというのは、結論としてやめたほうがいいと思うし、そういう本ばっかり読んでいたら数学の成績が上がるかというとそういうものでもないと思うが、「Z会旬報」の筆者が言いたかったのは、それなら、こういう本を読まない人間の方が、こういう本に関心を持ち、こういう本を読もうという人間よりもその科目の成績がいいかというとそうではないのではないか。やはり、直接、その科目の試験の成績アップにつながらないものでも、その科目そのもののような本を読んでみよう、読みたい、読まないとおれないというタイプの人間の方が成績もよい成績がとれるのではないのか・・・ということではないかと思う。
   柴田が「読む必要がない」と言うから読むのをやめる必要はない・・・・というよりも、井上清『日本の歴史 (上・中・下)』(岩波新書)は比較的読みやすい本であり、高校の3年の初めくらいまでの時期、もし、日本史が3年に配置されているのなら、2年から3年になる春休みくらいに、一通り、「読み物」くらいの気持ちで読めば、「読むべきか、読まざるべきか」とかうんうん唸るより前に読み切ってしまう本だと思う。 それで、柴田が「読む必要がない」と言っている本を読んでしまった、どうしよう・・・なんて悩む必要はない。 「受験の日本史」とか「Z会旬報」とかが「読んでおくべき本」と指定している本を「読んでない。どうしよう」と悩む必要はなかったと、私は今は思うが、誰かが「読んでおくべき」と言った本で読んでない本がある、どうしようとかつての私みたいに悩む必要はないのと同じく(そもそも、「これは読んでおくとよい」としてあげられている本をすべて読みきるなんて、実際問題としてできるわけないのだ)、「読む必要はない」と誰かが言った本を「読んでしまった、どうしよう」なんて悩む必要はさらさらない! 「読まないといけない」とまでのことはないと思うと柴田は言いたいのなら、そうかもしれないが、日本史を学習する前に、ダイジェストのように読む、もしくは、高校の教科書のような本ばかり読むのではなく、新書本くらいの本も読んでおいた方がよいとすると、これなんか手頃・・・という本ではないかと思う。
  又、慶應義塾大学なんて大学に行くと、内部進学の人間はこういう本は読んでいない。そして、それを得意にしており、新書本くらいのいくらかなりとも「骨のある本」を読んでいないということを自慢して「思考が柔軟な慶大生」とか言っているが、そういうものを「思考が柔軟」と言うものではないと私は思う。 慶應の教授は、「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と言うのだが、「害」はないと思う。「益」があると思う。そんな発言を年中しないとおれない慶應の教授、特に内部進学の教授というのは、若いうちからそういう教育を受けてきた人であり、得するか損するか知らんが、そういう人生を送る人である。けったいな教育を受けてきたかわいそうな人と言うべきかもしれないが、彼らはそれを得意にしているし、こういったことをうかつに彼らに言うと怒って襲いかかってくるから、「安全第一」というのか、『聖書』にも「聖なるものをイヌにやるな。真珠をブタに投げてやるな。彼らはそれらを足で踏みつけにし、向き直ってかみついてくるであろうから」と書かれていることであるから、彼らが言うところの「外部の者」「外部の連中」は彼らに余計なことを言わない方がよいだろう。 この点で、公立進学校の出身の人間と慶應の内部進学の人間を比べると、慶應の内部進学の人間て、かわいそうな人生おくってるなあ・・・なんて思うが、北野高校のような公立進学校出身の人間でも中には「慶應タイプ」の人間もいるし( 「慶應タイプの女たらし」になりたいなりたいなりたいなりたいと憧れてなれない人間、というのもいるし・・・)、安部公房の小説『棒』、戯曲『棒になった男』に出てくる「棒」みたいな男も中にはいるので、慶應タイプの「イヌ」や「ブタ」に余計なことを教えない方がいいのと同じく、「棒」にも余計なことは教えない方がいい と思う。 安部公房の『棒』『棒になった男』でも述べられていたことだが、「棒」にとっては棒として扱われるのが仕合せであり、棒を人間にならせてあげようなどとすると、棒としてはかえって迷惑なことだろうから。 〕
   『古寺を巡る29 大覚寺』(2007.9.4.小学館)所収の「歴史の舞台1 大覚寺統と持明院統 南朝秘史の舞台となった大覚寺」によると、1221年(いにに行ったよ、承久の変)の承久の変の後、鎌倉幕府の後押しで即位した後嵯峨天皇の息子である後深草天皇の子孫と亀山天皇の子孫が皇位継承をめぐって争い、執権北条貞時は調停者の役割を演じつつ朝廷側の結束を弱めるべく、両統の10年ごとの迭立を条件に、皇統を「御二流れ(おふたながれ)」としたが、後深草天皇の子孫は持明院を里内裏としたことより「持明院統」と言われ、亀山天皇の子孫は大覚寺を本拠としたことから「大覚寺統」と言われるようになり、後に、持明院統が「北朝」に、大覚寺統が「南朝」となって南北朝の争乱に至るらしく、大覚寺は、「大覚寺統」の本拠地として存在した時期もあったようで、歴史上、寺であるとともに、天皇の本拠地としてあった時代があったわけです。
    ですから、行ってみると、「お寺」だというわりにはお寺みたいじゃない、大覚寺派の大本山というわりには、お寺というよりも離宮みたいな感じがしないでもないお寺です。大覚寺HP「大覚寺について」 https://www.daikakuji.or.jp/about/ を見ると、≪正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。≫と出ており、お寺であるとともに、「旧嵯峨御所」でもあるようです。

   ややこしいことに、「持明院統」=「北朝」=親足利、「大覚寺統」=「南朝」=反足利 かというと常にそうでもなく、『古寺を巡る29 大覚寺』(2007.小学館)所収の「歴史の舞台2 足利将軍家をめぐる抗争 南北朝講和後の大覚寺」によると、
≪ 足利3代将軍義満の斡旋で南北両朝に、あらためて両統迭立などの条件の提示があり、これを了承した(南朝4代の)後亀山天皇は、1392年(元中9/明徳3)、神器を奉じて吉野の行宮(あんぐう)を出て大覚寺に入った。 ・・・・
   大覚寺の「検蠒(けんじ)の間」で、99代後亀山天皇から100代後小松天皇への神器の授与が行われた。こうして「南北合体、一天平安」が実現されたかにみえた。 ・・・・
   だが、両統迭立の約束は守られず、101代には後小松天皇の皇子 実仁(みひと)(称光天皇)が即位し、後亀山天皇の皇子である小倉宮(おぐらのみや)は完全に無視された。 伊勢の北畠満雅(きたばたけ みつまさ)はこれに抗議して兵を挙げ、また、日野有光(ひの ありみつ)が南朝の血を引く尊秀王(そんしゅうおう)を擁し、内裏に乱入するなどの事件が局地的に頻発した。
   その後も各地で南朝系の騒乱があいつぎ、なかでも大覚寺 31世門跡 義昭 大僧正の挙兵は、幕府の心胆を寒からしめた。 なぜなら義昭門跡は義満の息子であり、6代将軍義教(よしのり)の弟であったからだ。 幼いころから大覚寺で修行を重ねていたが、1437年(永享9)、突然、出奔して大和(奈良県)へ走った。ときに33歳。
   挙兵の理由は、やはり、両統迭立の反故(ほご)に対する抗議であり、足利将軍家の出身だからこそ、大覚寺の尊厳を守り、兄 義教の非道を糾弾するための挙兵であった。 先の小倉宮を頂き、討幕勢力を糾合して天河(てんかわ)に立てこもった。 幕軍を向こうにまわして小勢ながら果敢に戦ったが、2年後、日向(宮崎県)で敗れ、遺骸は京都に運ばれ、大覚寺で荼毘に付された。
   門跡の反抗という大事件の影響もあって、こののち大覚寺は荒廃するが、さらに応仁の乱の兵火で全焼した。・・・・≫
と、南北朝の合一の後、足利家の者が大覚寺の大僧正になり、大覚寺統の皇族を頂いて挙兵することもあったらしく、明治維新政府が国民に広めてきた、
「南朝・大覚寺統・・・楠木、新田、名和、北畠・・・」 対 「北朝・持明院統・・・足利」
という構図ではなく、
「南朝・大覚寺統・・・足利」 対 「北朝・持明院統・・・足利」
という構図による戦いもあったようだ。

  ちなみに、現在の天皇家は北朝・持明院統の子孫のはずで、南朝・大覚寺統の子孫ではないわけで、その割に、明治維新から「終戦」までの間、明治維新政府は、大楠公・小楠公と楠木正成・楠木正行の親子を最高の偉人として扱い、足利尊氏を歴史上の大悪人のように扱い、「南朝の遺臣」を祀る神社として湊川神社・四条畷神社・鎌倉宮・阿倍野神社とかを建てまくって、国民の精神支配(マインドコントロール)をはかったわけですが、今の天皇家は、楠木正成のおかげで天皇になっているのではなく足利尊氏のおかげで天皇になっているのであり、足利尊氏からすれば、恩知らずもいいところであるわけです。 そして、南朝・後醍醐天皇の子孫というのが、熊沢さんだと、熊沢天皇は言われていたわけです。皇位を返還してもらいたいという熊沢さんの主張は無視されてきましたが、後醍醐天皇の子孫への皇位の返還を断り、「南朝の遺臣」を祀って足利尊氏を悪人扱いするというのは、南朝側の熊沢さんとしても北朝側の足利さんとしても、納得いかないものだったでしょうな・・・・・。

   さらに言えば、鎌倉市には、「メカケ」や「逆賊」の言うことばっかりききやがってからに滅私奉公を続ける忠実な従業員をいじめるろくでもない経営者を懲らしめる神さま・大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう。 もしよししんのう)を祀る鎌倉宮http://www.kamakuraguu.jp/ があり、これは、明治維新後、神武天皇を祀る樫原神宮・桓武天皇を祀る平安神宮・天智天皇を祀る近江神宮・明治天皇を祀る明治神宮などの天皇を祭神とする神社とともに、「建武中興15社」として、楠木正成を祀る湊川神社・楠正行を祀る四条畷神社・大塔宮護良親王を祀る鎌倉宮など建武中興に貢献し南北朝の争いで南朝側についた「南朝の遺臣」を祀る神社を全国に作って、天皇制による国民の精神支配(マインドコントロール)を進めるべく作られたものであるが、そもそも、足利尊氏の弟の足利直義に鎌倉で殺されたということになっている大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう。 もしよししんのう)を足利尊氏や名和長利らに捕縛させたのは誰かというと、後醍醐天皇であったわけで、その時点では、
「南朝・大覚寺統・・・後醍醐天皇、足利、名和」 対 「南朝・大覚寺統・・・大塔宮護良親王」
という対決の構図があったわけで、後醍醐天皇が足利尊氏とともに捕縛して死に至らしめた大塔宮護良親王を、なにゆえ、「南朝の遺臣」と明治維新以後になってから祀り上げるのか、そこもまた、ようわからんところだ。しかも、北朝・持明院統の子孫の天皇の取り巻きが、祀り上げるというところが、なおさら、ようわからん。

   大覚寺の一般者参拝入口の南東側にある「覚勝院」は、この付近にある「普通お寺」かと思いながら通り過ぎたのですが、帰ってからインターネットで検索しますと、「大覚寺の唯一の塔頭」らしく、しかも、真言宗大覚寺派の「別格本山」という位置づけらしい。
画像

↑ 左側の石碑には「大聖歓喜天 覚勝院」と書かれています。
画像

↑ 屋根の上には、シーサーみたいの? が乗っています。

※ 「覚勝院」HP http://www.kakushouin.jp/

   大覚寺を参拝しようとすると、「大覚寺 祇王寺 共通券」というのを購入できますが、「祇王寺」とはどこにあるかというと、覚勝院のようなすぐそばではなく、JR山陰線の線路と大覚寺の中間付近から西にその中間付近から大覚寺までの距離くらいの距離を行ったあたり、厭離庵のまだ西、滝口寺のそばにあるようです。
   共通券を購入できるくらいですから、祇王寺もまた真言宗大覚寺派で、『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2007. 8版。 淡交社)によると、祇王寺は、≪ 念仏房良鎮(法然の弟子)が創建したという往生院の跡にあたる。 寺名は平清盛の寵愛を失った白拍子 祇王が母の刀自(とじ)と妹の祇女(ぎじょ)を伴って剃髪し、この地に隠棲したことにちなむ。・・・≫という寺らしい。
※ 祇王寺 HP http://www.giouji.or.jp/
   祇王寺の近くの滝口寺は浄土宗で、≪念仏房良鎮(法然の弟子)が鎌倉時代に創建した往生院の子院であった三宝院の旧跡。 『平家物語』の滝口入道こと斎藤時頼と建礼門院に仕えた横笛の悲恋の地として知られ、近年に小堂を建てて滝口寺と改めた。 この物語は高山樗牛が東大在学中に書いた『滝口入道』で有名。・・・≫(『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』2007. 8版。 淡交社)という寺らしい。
※ 京都観光Navi 滝口寺 http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000162

☆ 今回、掲載の写真の撮影は、4月9日です。

   次回、宸殿・正寝殿ほか http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_2.html

   (2017.4.15.)

☆ 大覚寺・大沢池・名古曾の滝
1.大覚寺参道、覚勝院。「持明院統」と「大覚寺統」 〔今回〕
2.宸殿・正寝殿ほか http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_2.html
3.庭湖館・霊明殿・御影堂・心経殿・唐門。慈性親王は殺されたのか?http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_3.html
4.五大堂・安井堂(御霊殿)。五大堂と大沢池と桜。五大明王とは。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_4.html
5.大沢池、名古曾滝跡と「女ひとり」。「君が代」は音楽的に良くない理由 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_5.html
6. 大沢池東岸より。JR「嵯峨嵐山」駅、阪急「嵐山」駅他。http://tetsukenrumba.at.webry.info/201704/article_6.html

☆  「大原 三千院」と「栂ノ尾 高山寺」の写真は、[第80回]《橋下徹の君が代強制礼拝式の当日は、海外旅行へ行こう、or、そうだ 京都 行こう。》http://tetsukenrumba.at.webry.info/201202/article_1.html に掲載しましたので、ご覧ください。



吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件 (学研新書)
学習研究社
藤巻 一保

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件 (学研新書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



日本の歴史〈上〉 (岩波新書)
岩波書店
井上 清

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 日本の歴史〈上〉 (岩波新書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
大覚寺・大沢池・名古曾滝【1】 大覚寺参道、覚勝院。「持明院統」と「大覚寺統」 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる