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zoom RSS 文学的素養があるから経済学部に行けと言う女とないから行ってはだめだという男−受験生へのエール【8】

<<   作成日時 : 2017/03/29 23:07   >>

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[第280回]
   【1】〜【7】でも述べたが、1970年代後半、北野高校の2年の時の担任であった旧姓S野(女。北野高校→神戸大文学部卒)は、どうも、私が嫌いだったらしく、ずいぶんと苛められたものだった。 私はあの女に嫌われていること、そして、苛められていることに気づかなかった。 高校の先生というものは、まさか、おのれの好みによって生徒を苛めたりすることはしないものだ、と勝手な信頼感を持っていたが、それは間違いだったと気づいたのは、すでに、40代も半ばを過ぎた頃だった。
   遠山啓(ひらく)は、『かけがえのないこの自分 競争原理を越えて』( 太郎次郎社)で、
≪ 父親はなんといっても家族のなかでいちばんの世間学者であり、悪くいうと、いちばんの俗物だ。 いくら利口な母親であっても、その点ではかなわない。 その俗物的な世間知から子どもは多くのことを会得するのだが、父なし子はその機会がない。
   だから、父なし子はたいてい世間知らずだ。 よくいうと純情だということになるだろうが、そのために、父なし子は世間にでてから、自分で数多くの失敗を繰り返したあとで、やっとそういう世間知を身につけることができる。 それは致し方がないことだ。 ≫
と書いているが、【6】 でも述べたように、遠山啓は小さい頃に会ったことがない父親を亡くしたというだけに、父親というものを良いものと思いすぎているきらいがある。 私も、よそのお父さんを見て、いいお父さんだなあと思い、自分の父親に父親である以上は、ああいう役割を果たしてくれていいのではないだろうかと期待して期待を裏切られたことがあり、また、あんなお父さんだったらいいのになあとうらやましく思ったことが何度もあったけれども、それはよそのお父さんであって、私の父はその人ではないのだから、どうしようもなかった。 父は「世の中にはなあ、カス親もおれば、ダメ父もおるわけで、わしいみたいな、えっらいえっらいえっらいえっらい神さまのようにえらいえらいびっくらこっこびっくらこっこするようなえらいえらいお父さんばっかしやないからなあ」とか言っていたが、そういうお父さんだったのだ。 少なくとも、遠山が言うところの≪ 家族のなかでいちばんの世間学者≫で、≪いちばんの俗物≫であったなら、そういう文句は言わないだろう。 父の勤め先の社長が、「あのアホはどうしようもおまへん」と部下が思うように働いてくれないとぼやく管理職がいた際、「アホはきみやろ。アホを使うのがきみの仕事と違うのか。アホはアホなりにつこうたらええがな」と言ったというのだ。 それを聞いて、うちの父親は、「さ〜すがは社長。 そうや。その通りや」と思ったというのだ。「アホはアホなりにつこうたらええわけや。世の中、わしいみたいなえっらいえっらいえっらいえっらい人間ばっかしやないいうことや。ええこと言いはる。さすが、社長や」とか言っていたのだが、おっさんは、ひとつ、気づいていない点がある。 もし、私が、そう言われたならば、はて、このおっさんにとって、私は「アホ」の方なのか、「アホ」でない方なのか、どちらだろうか・・・? と考える。 それを、疑いもなく、自分は「えっらいえっらいえっらいえっらい、ゆうしゅ〜うな人間」と決めつけて、「そうや。アホはアホなりにつこうたらええんや」とか口に出しているおっさんというのは・・・・、やっぱり、あんまり、賢くないように思う。 やっぱり、おっさんもまた、「アホはアホなりにつこうたらええがな」と思われて、使われてきたのではないか。 私は息子だから、最初、それを教えてあげたかったが、言うと怒るので教えようがなかった。
    遠山啓が言うところの、「世間知」があるお父さんがいる息子は得だと思ったが、我が家にはそういう意味での「お父さん」はいなかった。 だから、私は、遠山啓が≪父なし子はたいてい世間知らずだ。 よくいうと純情だということになるだろうが、そのために、父なし子は世間にでてから、自分で数多くの失敗を繰り返したあとで、やっとそういう世間知を身につけることができる。≫と言っている「父なし子」のようなものだった。 ずいぶんと痛い目にあい、そこから、おのれの骨と肉のきしみと引き換えにいくらかは「世間知」を身に着けたが、父親から10のものを受け継いだ人間が自分で10のものを身に着けると合計20であるが、父親がマイナス10くらいの人間だと、そのままは受け継がないとしても、マイナス5くらいのものを受け継いでしまうところがあり、それを克服して0にして、さらに15のものを身に着けたとしても、それでも15であり、父親から10のものを受け継いで自分で10を身に着けた者が20の「世間知」を持っているのに対して、マイナス5を克服した上で15のものをおのれの骨と肉のきしみと引き換えで身に着けた者は、それでも、15でしかないというのは、どうも、不公平のような気もするのだが、自分で克服したものが5、自分で身に着けたものが15の者と、合計20のものを持っていても、自分で身に着けたものはそのうちの10でしかないという者とでは、自分で身に着けたものが多い人間の方が有利である時だってあるかもしれないと思って、いいことにしておくしかない。
    それで、北野高校の2年の時の担任の旧姓S野には、今、思い出してもむかつくのだが、むかつくヤツは他にもいるわけだ。 YMCA予備校高槻校の「主事」という意味不明な職種についていたF井(男。 当時40代?)は、「そんなもん、生徒なんて、京大受けただの東大受けただのと思っていても、社会人経験がないんやから」とか言っていたのだが、しかし、大学受験の予備校に必要なものは「社会人経験」ではなく大学受験の経験のはずであり、「京大東大文系クラス」であれば、京大や東大の法学部・経済学部・文学部といったところを受けて通った経験か、残念ながら落ちた経験があって、こうしてうまくいった、こうやったがうまくいかなかったという経験が必要であって、会社づとめをしてどうだったという経験が求められているわけではないはずである。 ところが、そういうところで、「ぼくらは社会人経験があるんだから」とか関係のないことを言うというのは、それは、あんまりいい大学に行っていない人がやることで、それをF井はやっていたのだ。
    F井は「ぼくは早稲田の政経でてるんやけどな」と、一日に最低3回は言わないとおれないという人間だったのだが、私は実際に早稲田大学に行っていた学生、早稲田大学を卒業した人と何人か知り合ったことがあるが、F井ほど、「ぼくは早稲田の政経でてるんやけどな」と頻繁に言わないとおれないという人間は見たことがない。昔、「ぴあ」という雑誌があって、そのはじっこに、「はみだし ゆうとぴあ」という読者投稿欄があり、そこに、「何かと学外で着たがるのが早稲田のトレーナー。学内でしか着れないのが日大のトレーナー」と書いたものがあったが、川崎市幸区に住んでいた時、近所のおばちゃんが「KYOTO SANGYO UNIVERSITY」(京都産業大学)と書いたTシャツだったかトレーナーだったか着ていたので、このおばちゃんのバカ息子は川崎市幸区のあんまり金持ちが住む場所でない所の住人の息子なのに、川崎市幸区から下宿して行かないといけない京都の私立大学である京都産大なんて大学に行って、母親はそれがうれしくて息子が行く京都産業大学なんて書いたトレーナー着てるんだなと思ったことがあった。 私は、高校を卒業した年に東大を落ちた後、父親から「高校は義務教育じゃないのにおまえが高校に行ったのは余計じゃ」と毎日毎日何度も何度も言われたもので、「東大を受けるために東京まで往復した交通費が〇万円、ホテル代が〇万円。 願書を出すための封筒代が〇〇円、切手代が〇〇円。写真代が〇〇円・・・・。 でんたく、でんたっくう。でんたく、デンタク、電卓、でんたく。」と言ってデンタックウで計算されたものだが、川崎市幸区の貧乏人が住む地域のおばちゃんは間違いなく金持ちではないはずだが、そのバカ息子を京都産大なんて行かせて、その京都産大のトレーナーを喜んで着ていたのだが、親にもいろいろあるもんだ。 で、私は、YMCA予備校高槻校に行った時、知らなかったのだが、「早稲田の政経」というのは、実は「学歴詐称の定番」なのだ。 「ぴあ」のはじっこに掲載されていた「はみだし ゆう と ぴあ」に、「早稲田の大学祭に行って知り合った彼氏と結婚したが、結婚してわかった。彼は早稲田の学生だと称していたが、実際は学習院大の学生だった」というのがあった。F井も、まず、その類だろう。 最初に「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」という文句を聞いた時は、ああ、そう、くらいにしか思わなかったのだが、その後も、何度も何度も繰り返し繰り返し毎日毎日言い続けるというのは、これはいったい何なのだろうと思うようになった。 自分が会社というところに勤めてみると、「早稲田でてます」ときかれもしないのに言いまくる人間というのは、詐称の人間が多い、ということを知った。 実際、出てもいないのに早稲田でてるだの慶應でてるだの言うやつというのがゴマンといるのだ、世の中には。 学歴詐称する場合、慶應より早稲田の方が多いというのは、それは、慶應もマスプロ化しているけれども、早稲田の方がマスプロ化の度合が大きいので、早稲田の方が嘘がばれにくいという点からではないかと思う。 「F井の言うことはきかないでほしい」「あいつの言うことは無茶苦茶だから相手にしないでほしい」と私は何度も何度も言ったのだが、父は「専門家の言うこと、専門家、せんもんか、センモンカ、せ〜んむぉ〜んくゎ〜あ」と言い、母は「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人じゃない。 YMCAで主事やってるくらいだから、クリスチャンでも並みのクリスチャンではない。相当にえらいクリスチャンのはずだ」とか言って私の言うことはきかなかった。 それだけではなく、この藤井という男の汚いところは、生徒に無断で親と連絡をとって、生徒よりもだましやすい親をたらしこむという点であった。 私に無断で連絡をとった際に、親は「藤井の言うことはきかないでほしい」と私が言ったということを、どうも、藤井に言ったらしく、藤井は私に言ったのだ。「きみのような上役に逆らう人間は、会社員は無理だから、経済学部には行ってはいかん」と。 私は、経済学部だけは首をもがれても嫌だったので、そう言われて、もっと言え、もっと言えと思ったものの、何で、こいつが私の上役なんだ? とも思ったものだった。 YMCA予備校にはこちらがカネを払って行っていたのであって、「主事」とかいう藤井が私にカネを払ってくれていたのではない。 いつから、藤井は私の「上役」になったのだ? 
    その「上役」だという藤井に私は何を逆らったのか、「逆らった」という記憶がないのだが、彼としては、私が私の「上役」だという彼に「逆らった」という思いをしたことがあったようだ。 それは何かというと、どうも、こういうことらしい。 それを述べる。

   ★ 「文学的素養」があると判断する人間とないと判断する人間について ★
   YMCA予備校高槻校の「主事」というへんてこりんな職種名の男・藤井は、私に、「きみのような上役に逆らう人間は会社員は無理だから絶対に経済学部には行ってはいかん」と言ったのだが、それとともに、「きみは文学的素養がないから文学部は行ってはいかん」とも言ったのだ。 「文学的素養」とは何ぞや?  『受験の国語 学燈』という月刊誌が学燈社から出ていて、私は、高校3年の時、懸賞作文に3回応募して、そのうち、2回、佳作に入選したことがあり、「文学的素養」という点では、けっこう自信があったのだ・・・・・が、その時、佳作に入選したものは、その時は名作を書いたつもりでいたが、今、考えるとそうでもないような気がするが、それでも、『受験の国語 学燈』の選者は私の作文を評価してくれたのだ。 だから、YMCA予備校の「主事」とかいうおっさんから「きみは文学的素養がないから」とか言われても、「なに言うてんねん」としか思わなかった。
   一方、Nという男がいて、「Nはしっかりしている」とF井が矢鱈と持ち上げたのだが、私はNの世間が右に移動すればそれと同じだけ右に移動する、世間が左に移動すればそれと同じだけ左に移動するという根性というのか習性というのかをあんまりいいと思っていなかったが、世間が右に動くときに左端にいると危ないし世間が左に動く時に右端にいると危ないわけで、常に端にいないようにするというNの態度は、それは、もしかして、処世術として正しいのかもしれないし、そういう男を「尊敬する」人も世の中にはいるらしいが、たとえ、そうであっても私はそういうことはできないと思ったし、そういう態度を自慢する人間がえらいとも思わなかったし、それは大学入試とは別のものだと思っていたので、それで、「そうですか。私はそうは思っていませんけれども」と言うと、「ぼくらが言うのは、あくまでも受験に関してだ」と藤井が言うので、この男の言うことは信用できんなと思ったことがあった。YMCA予備校のような政治的色彩が強い予備校においては、それをおかしいと感じる人間よりも、そういう場所においてはカメレオンのようにそれに同化するというNのような男の方が対応しやすい面はあり、その点で、YMCA予備校などに行く場合はNのような男の方が適応しやすかったのではないかとは今は思っている。他の学校・予備校においてはそうとも言えないけれども。
    F井から「文学的素養がない」と言われたのは私だけではない。 前年か前前年かわからないが、女子生徒で、京大の文学部に行こうとして、YMCA予備校の模擬試験では「合格確実」などという「判定」を得ていたのだが、藤井が言うには「文学的素養がないから、京大の文学部には落ちたんだ」と言うのです。 これはおかしい。 もしも、藤井が言うように、YMCA予備校の模擬試験ほど京大の試験に相関性がある模擬試験はないということで、なおかつ、そのYMCA予備校の模擬試験では相当いい成績をとっていたにもかかわらず京大の文学部の本番の試験では落ちたということは、それは「文学的素養」がどうのこうのという問題ではないはずなのだ。 それで、私は「YMCA予備校の模擬試験が京大の試験と相関性があって、YMCA予備校の模擬試験ではよい成績をとれていたのなら、それで落ちても、文学的素養がどうという問題ではないのと違いますか」と。 すると、藤井は「そうじゃないんだ。 京大でも文学部は文学的素養がない人間は落ちるんだ」と言う。 私は「京大の試験では文学的素養がない人間は落ちるのであって、YMCAの模擬試験と京大の試験に相関性が強いのなら、YMCAの模擬試験でもよい成績はとれないのと違うのですか。もし、YMCAの模擬試験では文学的素養がない人間でもよい成績をとれるけれども、京大の本番の試験では文学的素養がない人間は通らないということなら、YMCAの模擬試験と京大の試験との間に相関性が必ずしも強くないということではありませんか」と、そう言ったのです。 すると、藤井は「そうじゃないんだ。 文学的素養がないようなヤツは模擬試験でどんなに良い成績を取ってもそういうヤツは本番の試験では落ちるんだ。 きみも文学的素養がないから京大の文学部なんかは絶対に通らない」とか言い出したのです。 そういう男だったのです。その藤井という自称「クリスチャン」は。要するに、自分が言った辻褄が合わないことを指摘されると、その相手に「文学的素養がない」とか「そういう人間は本番の試験では落ちるんだ」とか「上役に逆らう人間は会社員としては絶対にやっていけないから経済学部には絶対に言ってはだめだ」とか言うわけです。 だいたい、YMCA予備校にはこちらがカネ払って行っているのに、何を「上役」ヅラするのでしょうか。 何さまなんだ、この男は、と思いました。
   他に、YMCA予備校の「主事」だという藤井が言ったことで、「奈良県立医大は奈良県以外の高校の出身者でも合格できるけれども、和歌山県立医大は和歌山県以外の府県の高校出身者が受けても通らない」と言うのですが、北野高校の模擬試験で前年の試験でこの点数をとった人がどこを受けて通った・落ちたという冊子を高校からもらって見ていましたので、そこに北野高校から和歌山県立医大を受けて通った人もあったことが書かれていて、そういう情報を私は得ていたのです。 又、奈良県立医大は公立のわりに私学みたいにコネだかカネだかがきくみたいな噂があったりしたので、「それ、逆ということはありませんか?」と言うと、「いいや。奈良県立医大は他県の受験生でも大丈夫で、和歌山県立医大は他の府県から受けた場合はまず通らない」と言い張るのでした。 それなら、北野高校の模擬試験で和歌山県立医大に合格したという人、合格して行ったという人はあれは嘘だったのか?  その後、2浪しましたので、結果として、他の予備校の人からも話を聞くことがあり、駿台予備校の進学指導の係という人と話をした際に聞いた話では、奈良県立医大は奈良県以外の府県から受けて絶対通らないということはないが、どうも、奈良県内の高校卒の受験生と他府県からの受験生で合格最低点に差をつけているようだが、和歌山県立医大は他府県からの受験生も和歌山県の高校卒の受験生と特に差はないようだという話を聞きました。 ともかく、藤井が言ういいかげんな話について、「え?」と疑問を感じて、感じた疑問をそのまま口にだすと、「きみのような、上役に逆らう人間は会社員としてはやっていけないから経済学部にはいってはだめだ」とか「きみのような文学的素養がない人間は文学部はだめだ」とか言われることになるようでした。それが「クリスチャン」「クリスチャンはクリスチャンでも並みではない相当えらいクリスチャン」のすることのようでした。
    さらに、藤井は、「きみら、地方の大学はやさしいとか思っているのかもしれないけれども、地方の大学はその地方の優秀な人間が受けるんだから、地方の大学だからやさしいなんてことないんだからな」などと言ったことがありましたが、それは正しくない。 実際問題として、東京圏や関西圏の進学校に比べると、「地方の進学校」というのは、進学校と言うに値しない進学校が多い。 実際問題として、兼業農家が息子の尻をたたいて勉強させて、東大でも行かせて卒業する時になって、「田んぼがあるんだから百姓の後を継げ」なんて行ったらかわいそうでしょ。 そういう人は、進学熱がないわけではないけれども、都市部の人間ほど進学熱心ではないわけです。 藤井はそんなこともわからんのです。 そして、「地方の人間は根性があるのだから、模擬試験ではあんまり良い成績をとっていなくても、地方の人間は本番の試験ではきみらと違って根性でいい点をとるんだからな」などと言うので、「それはおかしいのと違いますか」と私は言ったのです。 「根性があるからいい点数をとれるのなら、模擬試験でもいい点数をとれるのと違うのですか」と。 「たとえば、運動選手なんかで『根性』と言うのが好きな人とかいますが、根性を発揮する運動選手が、大学受験の勉強をちっともやっていなくて、それでも、根性があるから東大に通ったり京大に通ったりしますか? そうではなく、大学受験で必要なのは、あくまで、その大学学部の入試の問題を解く能力と違うのですか。腕立て伏せとかやりたければやってもいいけれども、毎日、何百回と腕立て伏せの練習やったら東大なり京大なりに通りますか。 そういう問題と違いますでしょ」と私はそう言ったのです。 そうすると、また、「きみのような上役に逆らう人間は会社員は無理だから経済学部には絶対に言ってはいかん」とか「きみは文学的素養がないから文学部は行くべきではない」とか言うのです。
    さらに。 共通一次試験があって、自己採点の結果から、行きたいと思う大学学部に対して、「有望」か「挽回可能ライン」か、「かなり厳しい」かといった「判定」を予備校や模擬試験業者が出しましたが、YMCA予備校の「判定」は他の予備校・模擬試験業者と比べて「やや厳しめ」でした。 なぜ、わかるかというと、そこの予備校に予備校生として行っていなくても、自己採点の結果と行きたいと思う大学学部を書いて提出すれば、「有望」「挽回可能」「厳しい」・・・・といった「判定」を出してくれる所がいくつかあり、私も3つほどの所で出してもらいましたし、又、週刊誌などにも、共通一次試験と全国の大学学部への合格有望ライン・合格挽回ラインといった点数が掲載されていましたので、それらを比較するとYMCA予備校の「判定」は他のところより「やや厳しめ」だったのです。 ところが、ここでも、YMCA予備校の藤井は、「地方の進学校は、YMCAよりも厳しい判定を出してるみたいなんや」などと言い出したのです。 なぜ、そんなところで、わざわざ、「地方の進学校」などというものを引っ張り出してくるのか。 普通に考えておかしいですよね。 な〜んでか。 「都市部の進学校」は、そこにいる人間自信が都市部の進学校の卒業生であり、「都市部の進学校は」などと言ったのでは嘘がばれる。 そこで、「地方の進学校では」などと言い出したようです。学歴詐称する男がやりそうなことです。 共通一次試験が実施されるより前は、北野高校のようなその地域の一番手校では高校の模擬試験というものがあって、北野高校の模擬試験は京大・阪大には相当相関性が高く、業者の模擬試験を受けなくても北野高校の模擬試験だけを受けても十分に京大・阪大に行けるというくらいでしたが、共通一次試験が実施されてからは、さすがに、全国ネットの予備校や模擬試験業者の方が、共通一次試験と各大学学部の相関という分析はできるようで、北野高校でもそういう業者の情報を取り入れていたのです。 「地方」の進学校はそういう業者の情報に頼らずに、高校独自に「判定」を出していたのかというと、出す能力はないはずです。 私は自分が出してもらった他の機関の「判定」と比べても週刊誌などに掲載されているものと比べてもYMCA予備校の「判定」は「やや厳しめ」であるのを知っていたので、「それは違うのでは」と言おうかとも思ったのですが、もし、言うと、またもや、「きみは文学的素養がない」とか「上役に逆らう人間は会社員は無理だから経済学部は受けてはだめだ」とか言い出すと思ったので、こいつには言わない方がいいと思って言いませんでした。
    要するに、YMCA予備校高槻校の「主事」だという藤井という男は、自分が矛盾したことを言った時に、「そえは違うのでは」と言う人間がいると、「文学的素養がない」とか「上役に逆らうような人間は経済学部には行って拝観」とか言うのでした。 今でも私が不思議に思っているのは、彼は私の「上役」ではないはずなのに、なぜ、彼は「上役」になったつもりでいたのか、という点です。 あんなこと思う人間、あんまりないと思うのですが、あったのです。 カネ払ってるのはこっちなんですよね。YMCA予備校に私はカネもらって雇ってもらっていたのじゃないんですよね。
    YMCA予備校の「入学式」で、やはり、「主事」というよくわからない役職の隅という男が、「聖書にも、神がソドムの街を滅ぼそうとされた時、ロトとその娘を助けようとしてロトの所に行き、ソドムの街から逃げるように言われ、その際に、『決して後ろを振り返ってはならない』と言われたように、浪人中は決して後ろを振り返ってはならない」と言ったのだが、これは逆だ。浪人してしまった人間が、現役の人間と比べて有利な点は、「1回経験している」ということだ。 慶應大なんかに行くと、底辺の方の高校卒の人間で高校卒業時にはろくな大学に行けそうにない成績だったのが、浪人して言った予備校がその人間に合って、慶應大のその学部の入試の科目だけを勉強して、話をするとこの男、勉強してないなあとはっきりわかる人間だが、慶應大の入試には1浪で合格してしまってそれでアホのくせしてふんぞり返っているという人間がいるが、そういう人間は、高校卒業時においては最初から通るわけがなかったのであり、そういう人間は「高校卒業時の受験の経験」なんて実質上ないわけだが、1970年代後半、私が行った頃の北野高校のような現役で合格する人間と1浪で行く人間が半々くらいで2浪以上がいくらかいるという高校の卒業生は、浪人した人間でも、現役で通ろうと思えば通れた大学はあったはずであり、通った人間と比べてものすごい差があるわけでもなかったわけであるわけで、もしも、合格して大学生になっていたならば、知り合いの息子なり娘なりの家庭教師でもやっている可能性だってあったわけで、そちらの方の人間は、前年の経験をふり返って、どこは良くてどこが良くなかったのか自分で分析して、良くなかった所を改め、足らなかった部分を補うということをするべきだ。「決して後ろを振り返ってはならない」とはとんでもない間違いだ。 こういうことも、もし、口に出して言ったならば、YMCA予備校の職員は「そういうことを言って上役に逆らう者は会社員としてはやっていけないから経済学部には絶対に行ってはだめだ」とか言い出すわけだ。 そもそも、何度も述べるが、YMCA予備校の底辺の大学しか出ていないと思われる「主事」とかいう男は、いったい、いつから、受験生の「上役」になったのか? なんで、カネを受け取っている側の人間が「上役」ヅラするのか、そこが理解できない点であるが、「YMCA予備校の学費は親からもらっているのであって、きみらからは1円としてカネもらってない」とか言うのだが、世の中にはアルバイトをして予備校代を稼いで払っている人間だっているはずだが、そうでなくても、親は息子・娘のためにカネを出しているのであって、親が出しているか本人が出しているかなんて関係ないはずなのだが、そういう理解できないことをやっているから、だから、YMCA予備校は・・・・→つぶれた。

    で、北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野R子(女。当時、20代前半。北野高校→神戸大文学部卒)は、私に「文学的素養がない」とは言わなかったのです。 なぜか。 なぜなら、彼女はまがりなりにも国語の教諭でしたから、授業で話をしていても、文学者の名前も代表的作品の内容も知らないような生徒もおれば、私のように、ある程度以上知っている生徒もいたわけで、数学や物理は喜んで勉強するけれども、森鴎外てそれ誰? みたいな生徒と、私のように、「現代国語の勉強は、高校の3年間に、誰か1人の文学者の作品をすべて読破するというのが大事です」などと旧姓S野に言われると、律儀に本気になってそれを実行するような私みたいな人間とでは、やっぱり、「文学的素養」て変な言葉であり、そりぁいったい何だ? て感じですが、ない方ではないという評価になるわけです。
    その結果、「あなたは文系よ」ということで、東大や京大では経済学部(東大では文科2類)の入試科目は数学・英語・国語・社会と理科も共通一次試験後は共通一次試験で、共通一次試験以前は京大は理科も2科目、東大は東大が実施していた一次試験であったものの、慶應大では経済学部の入試は数学と英語で、商学部の入試科目は数学と英語と社会科が日本史か世界史から1科目を選択であって、国語の試験はなく、慶應大では経済学部・商学部では国語は重視されていない科目であるのに、「文学的素養」はある方と評価してもらっていたらしいことから、「経済学部はだめだ」という評価はされず、逆に「あなたは文系(経済学部)よ」とされてしまったのでした。
   片や、「文学的素養がない」と決めつけられて、文学部と経済学部はだめだと決めつけられ、片や、「文学的素養」はある方と判断されて、そこから、「あなたは文系(経済学部)よ」と決めつけられる。 なんだか、高校の教諭とか予備校の職員とかいうのは、おのれのデマカセというのか気まぐれというのかで生徒に言いたい放題言ってるて感じ。 遠山啓が言う父親がある息子なら、父親から「世間知」を受け継いで対応できたのでしょうけれども、我が家は遠山啓が言う「世間知」がある「父親」はいなかったわけで、その点で私は「父なし子」であったため、自分自身で何度も痛い目にあって学び、おのれの骨と肉のきしみで「世間知」を少しずつ身に着けていくしかなかったようです。 YMCA予備校でも、私が「藤井の言うことは無茶苦茶だから、あいつの言うことはきかないでほしい」と親にいくら言っても私の親はきいてくれなかったのに対し、そうではなく、親の方が感知して、「そういう人は相手にしない方がいいよ」と教える親もあったように思えます。 そのあたりが、合否を分けたという面もあると私は思っており、その点で、大学入試はすべての人間が同じスタートラインから同じ条件で受けているものではないので、通った人が優秀で落ちた人間はすべて優秀ではないとかは言えないと思っています。

   YMCA予備校高槻校の「主事」だという藤井は、「上役の言うことに逆らう人間」は会社員としては無理で経済学部には行ってはいかんと言うのでしたが、その認識が正しいかというと、そうでもないと思います。 慶應大学の4年の時、私は人より歳をいっての卒業であり就職は有利ではなかったのですが、ある外資系の銀行に会社訪問として行った際、会っていただいた方は「顧問」として三井銀行からその外資系銀行に行っていた方でしたが、慶應大学の経済学部を卒業された方で、同じ大学の人間だということで、直接、その応募と関係のない話も聞かせていただいたのですが、その方が「私も、今まで、ずいぶんと上役ににらまれたり嫌われたりもしたもんですよ」と言われたのです。 「友人から、『おまえ、どうせ、たいした給料もらってないんだから、会社のためを思ってそんな上役に嫌われるようなこと言わなくたっていいじゃないか』なんて言われたこともありますけれども、私はそうは考えなかった。 『どうせ、ちびっとしか給料もらってないんだから、言うべきことも言わずにだまっておればいいじゃないか』という考え方もあるかもしれないけれども、私はそうではなく、『どうせ、ちびっとしか給料もらってないんだから、会社のためを思って、それは違うぞと思ったなら、言わせてもらおうではないか』と、私はそう考えた」と言われたのです。 「その結果、嫌われもしましたし、左遷もされましたよ」と。 しかし、話を聞いていると、一時的に嫌われもすれば左遷もされたかもしれないけれども、結果として、相当出世もされて、役職も高い役職につかれて、すでに世間では定年退職の年齢を過ぎているにもかかわらず、外資系銀行から「顧問」として来てくださいと言われて行かれていたわけですから、最後は認められたということのようです。 そもそも、会社員というのは、「上役が雪は黒いと言えば雪は黒いと言うものだ」なんて、誰が決めたのですか? 自分自身の意見を持たない、上役が「雪は黒い」と言っても、それは違うぞと気づかないような能無しが会社員に向いてる、経済学部に向いているなんて、誰が決めたのですか? 法隆寺宮大工棟梁であった西岡常一さんは、何の本でだったか忘れてしまいましたが、「たとえ、どんなにえらい先生が言われることであっても、それは違いまっせと思うたら言わにゃいかん」と語ったおられ、そういう姿勢であったから、学者先生から「法隆寺には鬼がいる。西岡という鬼がいる」と言われるようになったらしい。 会社のためを思って、それは違うと思った時にそれを言う人間と言わない人間、言えない人間、それは違うと気づくことができない人間なら、何も気づかない何もわからない人間が会社にとってよい人間なのか、世間が右に動けば自分もそれと同じだけ右に動く、世間が左に動けば自分もそれと同じだけ左に動くというそういう人間が会社のためになる人間なのだろうか。 上役が言うことが不適切だと思っても自分の考えを述べることができない人間というのが、YMCA予備校の認識は、どうも、違うように私は思うのだが(もう、つぶれてないけどね)。 もっとも、私が慶應大4年の時に、ある外資系銀行で会っていただいたMさんは、「それは違うぞと思うたら言わせてもらおうではないか」と考えられたらしいが、一時的に嫌われたり左遷されたりしても、結局は会社は認めてくれたようですが、それは、三井銀行に勤めていたからであって、私が勤めたような三流以下企業においてはそうはならなかったということが十分考えられます。
   
   『東京大学機械的合格法』『司法試験機械的合格法』の著者の柴田孝之が「能力においても人間性においても優秀な教師というのは、多くの人間が思っているよりも、はるかに少ない」と、『東京大学機械的合格法』の方でだったと思いますが、書いていましたが、実際にそうだと思います・・・・が、私が実感としてそれを理解できるようになったのは40前後くらいになってからで、「学校の先生」というものを世間一般の人間よりも信用していたのは、「高校までエリート」だったから「先生」に対して信頼が大きかったという面もありますが、遠山啓の定義づけで考えるところの実質「父なし子」だったから「世間知」が不足していたという点もあったと思います。
   (2017.3.29.) 

☆ 受験生へのエール
1.受ける大学学部を「理科と社会科はどちらの成績がいいか」などで決めてはならない http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_1.html
2.文系か理系かどちらと言い難い学問分野があり、複数学部にある学科がある http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_2.html
3.「受験は頭でやるもんや」、及、「覚える型人間」か「考える型人間」か http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_3.html
4.「燃える人間」か「燃えない人間」か、「科学論理型」か「現状妥協型」かhttp://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_4.html
5.「アカデミック型」か「実用型」か、ブタ人間はお好き? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_5.html
6.両親が離婚した人間より離婚しない人間は「家族の政治学」で苦労しないか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_6.html
7.「会社員型」か「非会社員型」か。親には息子に「所有権」があるのか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_7.html
8.文学的素養があるから経済学部に行けと言う女とないから行ってはだめだという男 〔今回〕


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文学的素養があるから経済学部に行けと言う女とないから行ってはだめだという男−受験生へのエール【8】 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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