哲建ルンバ

アクセスカウンタ

zoom RSS 「アカデミック型」か「実用型」か、ブタ人間はお好き?―受験生へのエール【5】

<<   作成日時 : 2017/03/29 21:36   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

[第277回]
【D】「アカデミック型」か「実用型」か。 「文学型」か「ブタ人間型」か。
    京都に「哲学の道」というのがあり、西田幾多郎がそこを「哲学しながら」歩いたと言われている。 東京都文京区の本郷にある東大本郷キャンパスには「三四郎池」というのがあって、もともとは育徳園心字池といったのが、夏目漱石の『三四郎』で、そこを三四郎が歩く場面があることから三四郎池と言われるようになったという。 大学とはそういう所だと私は思っていた。 ギリシアのソクラテスとかプラトンとかアリストテレスとかいうような哲人(鉄人ではない)が、そこで思索をおこない、そして、ロンドンのハイドパークにあるスピーカーズコーナーのように、ある者が、私はこう思うと述べると、別のものがそれに対して、私はそうではなく・・・と考えると述べ、また、別の者が、私はそうではなく・・・と考えると述べて議論をおこなうというそういう場だと思っていた。 しかし、慶應大の経済学部や商学部の学生というのは、実際のところ、大学とは「すごろく」としか考えていない。 私がアルバイトに行った先に来ていた学歴としては高卒くらいのにーちゃんの方が、むしろ、学問を学ぼうという姿勢はあったくらいである。 特に、慶應という大学は、内部進学の教授・助教授が、「大学」という枠にはめられたスゴロクとして学年を進むためのお勉強以外の学問を「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」と否定してしまうことから、純粋に学問的関心をもって学ぼう・探求しようという姿勢の芽を摘んでしまうという特徴があるという原因があると思うが、アカデミックなものを期待して大学に行った人間からすると、幻滅する大学である。 日本の大学の中で、最もアカデミックな大学というと、京都大学ではないかと思うのだが、しかし、大学には、それぞれ、悪口というものがあって、東大は「役人養成所」、中央大学は「資格試験予備校」、慶應は「サラリーマン養成所」、そして、京大は「学校の先生みたいな人間ばっかり養成している大学」という批判があるわけで、アカデミックだから肯定してよいと決まったわけでもない。 実際、オーナー社長の会社の社長の息子なんてのが行くには、「学校の先生みたいな人間ばっかりを養成している大学」の経済学部より、「サラリーマン養成所」の慶應の方がいいかもしれない・・・・ということで、慶應はオーナー社長の息子が多いようだが、そういうやつを相手に、「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか♪」なんて語りかけても、絶対に応じてくれないから、それはやめたほうがいいとわかった。
※ 《YouTube―ソクラテスかプラトンか サントリーオールド900のCM 》https://www.youtube.com/watch?v=_A0wjd-XDyI
    北野校の2年の時、「倫理社会」の授業の時に、A先生が「プラトンの『ソクラテスの弁明』『饗宴』、デカルトの『方法序説』、三木清の『人生論ノート』、夏目漱石の『こころ』、ドストエフスキーの『罪と罰』、ぼくはこういった本も読んだことがないような人間というのは、人間として欠陥があるのじゃないかと思いますねえ」としばしば言われていた。 「大学入試に通るかどうかよりも、こういう本を読んで考えることの方がよっぽど大事なのじゃないかと思う」と言われたこともあったが・・・・・、それはどうかな? 落ちた人間からすると、それは違うと思う・・・が、そう言いたいくらい読んでもらいたいという意味なのだろう。 しかし、慶應大の経済学部とか商学部とかに行っているどこかの会社のオーナー社長の息子とかいうようなのを見ると、「プラトンの『ソクラテスの弁明』『饗宴』、デカルトの『方法序説』、三木清の『人生論ノート』、夏目漱石の『こころ』、ドストエフスキーの『罪と罰』、ぼくはこういった本も読んだことがないような人間というのは、人間として欠陥があるのじゃないかと思いますねえ」とでも言ってやりたい気持ちになる。 又、教養課程のある日吉には同じ日吉キャンパスの中に慶應義塾高校があるが、あいつらを見ると、「こいつら、人間として欠陥があるのじゃないか」と思うことがあった。 慶應義塾高校の生徒も生協を利用していたようだが、高校生が「プレイボーイ」なんて読むというのが私には信じられなかった。(あれは、学生服を着ていたが、高校生ではなく体育会だったのだろうか。 体育会の人間でも普段は学生服なんて着ていないはずであり、あれはやっぱり高校生だったと思うのだ。) 本屋で恥ずかしそうにこっそりとはじっこの方だけちらりと見るとかいうのならわからないこともない。 しかし、それが「塾風」で「独立自尊」で「スマート」で「福沢精神」であるという態度で見ているというのは、やっぱり、あの高校は教育方針が間違っているのではないかと思った。 やっぱり、高校生は「プレイボーイ」なんて見るものではなく、アンドレ=ジッドの『狭き門』とか、ロマン=ロランの『ジャン・クリストフ』とかプラトンの『饗宴』とかキルケゴールの『反復』とか阿部次郎『合本=三太郎の日記』とかを読むものではないだろうか・・・と私などは思うのだが、こういうことを言うと、慶應の教授は「そんなものは受験勉強だ。害があるんだ」とか言い出すわけだ。 どちらが「害がある」か。 私は、たとえ、受験の過程で学んだものであっても、有益なものはあるし、受験の過程で学んだものだからといって、「害があるんだ」と否定しないと気がすまないおっさんの方がおかしいと思う。慶應の教授とつきあうと、なんか、ビョーキが移りそうて感じで嫌だった。
    実際のところ、「ドストエフスキーの『罪と罰』、こういう本も読んだことがない高校生は高校生として欠陥があるのじゃないかとぼくは思いますねえ」と北野高校の2年の時、「倫理社会」のA先生は言われたのだが、「欠陥がある」とまで言うと言いすぎではないかとも思うし、又、ドストエフスキーの『罪と罰』てそこまでいい作品かなという疑問も感じないことはない。 特に、最後の「エピローグ」の部分は蛇足だと思うし。 ドストエフスキーというのは、なんで、こんなに長ったらしい文章を書かないと気がすまないのかとも読んでいて思って来るし。そう思っていると、遠藤周作が、『罪と罰』について、あまり好きになれないようなことをどこかで書いていたのを見たのだが、それがどこでだったか忘れてしまった。また、夏目漱石の『こころ』については、小谷野敦という人が『こころは本当に名作か』(新潮新書)という本を書いている。どの作家のどの作品であれ、ともかく称賛しなければならないようなことはないはずで、読んだ上で、そんなに称賛するほどのものかなと思うことがあって不思議はない、というより、有名作家の作品であるから称賛しなければならないなどという筋合いはない。又、北野高校の「国語」の教諭であった旧姓S野が「芥川賞というものが、この賞を受賞すれば作家としてやっていけるという賞なのですが」などと「現代国語」の授業で言ったことがあり、私はそれを聞いて、芥川賞というのは、文部省が出しているか、そうでなければ、日本の文学界の人たちが集まった非営利団体が出しているか何かそういうものかと思ったのだが、そうではない。文芸春秋というひとつの出版社が商売で出している賞である。ひとつの出版社が商売で出している賞だから何の価値もないとは決まっていない。そこから先は、「作家で精神科医」の なだ いなだ が『娘の学校』(中公文庫)で、「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。 どのような人が受賞しているかで賞の値打ちが決まるのだ」と書いていたが、その通り、「どのような人が受賞しているかで、その賞の値打ちが決まる」ことになる。 「有名作品」とか「名作」と世間で評価されているものだから、価値があると自分も評価しなければならない理由はないし、ヘーゲルだったかカントだったかは「我が教えるのは哲学ではなく、哲学することである」とか述べたとかいうが(この話はどこかに書いてあった話だが、どこで読んだか忘れてしまった)、実際、『罪と罰』にしても『こころ』にしても、「名作」とされているものだからせっせと称賛するというのでは、それでは、何のために読んでいるのかわからないことになる。 「この本は絶対に読んでおいてもらいたいと思うねえ」と「倫理社会」の先生が言った本だから読むという姿勢にしても、はたしてそれがいいのかどうかという問題もあるかもしれない。 いずれにせよ、その本を読んだことがあるかないかが主要な問題ではなく、そういった本を読んでそこで取り上げられているような内容を考えたことがあるかないかが重要で、そういったことを考えたこともないというのは、それでは、たとえ、入学試験でどんなに高得点を取ったとしても、人間として欠陥があるのではないか、ということだと思う。 「大学入試に合格するよりも、こういう本を読んでおくということの方がよっぽど大事やと思うわ」て、あんた、それは無責任な発言やで、それは・・・・と通った人間なら思わないかもしれないが、落ちた人間はやっぱり思うな。 「大学入試に合格するよりも、こういう本を読んでおくということの方がよっぽど大事やと思うわ」と言いたいくらい若いうちにこういった本を読んで考えるということは人間にとって大事なことだという意味であろうとは思うが、それでも言い過ぎだと思うよ。
   しかし、慶應義塾高校の生徒を見ると、あるいは、内部進学の教授・助教授を見ると、ドストエフスキーをどう評価するかは別として、やっぱり、「ドストエフスキーの『罪と罰』、こういう本も読んだことがない高校生は高校生として欠陥があるのじゃないかとぼくは思いますねえ」と私は思った。その際、『罪と罰』がどうか、『こころ』をどう評価するかは重要な問題ではない。 こいつら、人間として欠陥があるのじゃないか、と。口に出して言うと怒るし、殴りかかってきたりするし、それが「愛塾」とか思っとるしするから怖いのだが、あいつらの考える「学問」というのは、「プレイボーイ」が基礎になってできている学問だということが、慶應義塾高校の生徒を見てわかった。 「近代経済学」というのは、そんな感じのところがある。 ブタ人間の経済学だという特徴が。
   矢内原忠雄『イエス伝―マルコ伝による』(1999.8.25.角川文庫 1968年12.角川選書にて発行)所収の矢内原勝「解説 矢内原忠雄」によると、矢内原忠雄の経済学は≪東大での同僚で親友であった大内兵衛から「マルクスをバラバラではなく丸飲みにしてほしい」と言われても、父にはそれができなかった。≫ような経済学だったようで、≪近代経済学には父は触れたことがなかった。第二次世界大戦後に東大に復帰して、アメリカの学者や若い同僚がこれをやっているのを見て、「技術的」という感想を漏らし、それはその通りなのだが、「ちょっと勉強すればわかるのではないか」とも言っていた。・・・≫と書かれているが、実際、矢内原忠雄が感じたように、高校までで文学や詩・哲学・宗教学などを学んできた人間が近代経済学に触れると、「技術的」という印象を受けるのではないかと思うし、さらに、経済学部に行って「近代経済学を勉強したいんです」とか言っている男を見ると、ブタ人間という印象を受けるのではないかと思う。 近代経済学については、私は今でも「ブタ人間の経済学」という印象があるのだが、それなら「非ブタ人間」はマルクス経済学を信奉しなければならないのかというと、そういう問題でもないと思うのだが、しかし、近代経済学学部に行っている男どもを見ると、両腕いっぱいにカネと女をだかまえて生きて行きたいという強い意志をもっていてそれを自慢にするような、いわば、「慶應ボーイ」みたいなそういうタイプのヤカラのやるものという印象を受けるのは事実である。

    ただ、世の中、そういうブタ人間が好きな人間というのもいるわけだ。 昔、なんとかいう東大の総長が入学式の挨拶で、「太ったブタになるよりは、痩せたソクラテスであれ」と語ったというのだが、慶應の塾長なら(今の塾長の清家先生は、言われることを見ると比較的良心的な方かという印象を受けているが、それまでのなんとか先生とかなんじゃら先生とかなら)、「コストと利益を比較衡量して、痩せたソクラテスにならないよう、いかにして太ったブタになるかを考えよ」と教えられるのではないか? なんてそんな感じの印象を受けたが、あんまり言うと怒られるかもしれんが、慶應はそんな雰囲気がただよう大学である。 そして、「哲学の道」を「哲学」しながらさまよう男とか、三四郎池のほとりを思索にふけりながら歩む男なんて、「モラトリアム人間(病)」とビョーキ扱いしてしまうのが慶應義塾の精神であり、小此木啓吾(「幼稚舎から慶應」らしい)の得意技である。 シューベルトの『冬の旅』〔⇒《YouTube―冬の旅 第一曲 =おやすみ=》https://www.youtube.com/watch?v=swVV2qPWUaI 〕よりも、早見優の方が好きという男ども〔⇒《YouTube―早見優 夏色のナンシー》https://www.youtube.com/watch?v=HvMXNEAX-wQ  〕の大学であるから、行くと、せっかく今まで努力して学んできたのに、こんな連中の大学に行くとビョーキうつってしまって嫌だなという感じがするが、それを言うと、「モラトリアム人間(病)」とか「診断」されてしまうおそれがあるし、「治療」される危険もあるから、うかつに口に出して言えない。怖い、怖い。
    こういうことを考えた時、やっぱり、小学校から高校まで、『ソクラテスの弁明』とか『こころ』とか『合本=三太郎の日記』を読んできた人間は慶應なんか行かない方がいいと思うのだ。特に、慶應の経済なんて最悪。 慶應大は経済学部と商学部では、経済学部の方が看板学部だと思っている人がいるが、商学部の先生が言われるには、もと理財科と言っていたものを経済学部に名称変更して、それを、戦後、学部の定員を増やそうという話が出た時に、それならいっそ学部を2つに分けてはどうかということで、経済学以外もやるけれども経済学が中心の学部を経済学部、経済学もやるけれども商業学・会計学・経営学などに力を入れてやる学部を商学部と名づけたのであって、経済学部だけが理財科の後身で商学部は戦後に何もないところに新しく作った学部ではなく、経済学部と商学部の両方が理財科の後身なんだそうだが、内部進学の人は「名前をとる」という性質があり、「経済学部」という名前の方が「聞こえがいい」というところから商学部ではなく経済学部の方に行きたがる人が多いのだが、逆に、その結果として、内部進学の人間が矢鱈と多いのが経済学部、慶應の学部の中では内部進学の人間が少ない(といってもけっこう多いのだが)のが商学部となっていることから、実際に行っている人間を見ると、経済学部と商学部なら商学部の方が、ブタ人間の比率は比較的小さい。
    私は、「実用的」な学問を否定するつもりはないが、しかし、プラトンの『ソクラテスの弁明』とか『饗宴』、阿部次郎『合本=三太郎の日記』とかサルトル『言葉』とかを、「そんなもの読んで何か価値があるのか」と大威張りで言うような連中というのは、私はそういう連中を見ると、こいつら、「人間として欠陥があるのじゃないか」とか、「こいつら、人間か」とか思った。
   大学を選ぶ時、学部を選ぶ時、そのあたりも考えて選んだ方が良いのではないかと思う。 ソクラテスがブタ人間大学の近代経済学部なんか行くと、苦痛を感じるばかりだと思う。 小学校の1年から努力して、他の同級生が遊んでいる時も勉強してきたのに、その結果が、金持ちのブタ人間どものしもべにならされる大学に行かされるという結果だったのか、と思うと、泣いても泣ききれない。
   北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野は、私に「理科の成績と社会科の成績を比べると社会科の方がいいみたいですから、だから、あなたは文系よ」と決めつけたのだが、私はA先生の「倫理社会」がけっこう好きだったのだ。 「太宰治の『人間失格』、これはぼくは人間合格やと思いますねえ。 『人間失格』も読んだことがない、こういうことを考えたこともないというようなそういう人間こそ人間失格だ」とA先生は言われたのだが、これは、慶應の内部進学の人が言うところの「(慶應義塾の)外部の者」である大学から入った人間には、同じようなことを思う者はいるのだが、内部進学の教授・助教授からすれば、そんなこと思っているような人間というのは「モラトリアム人間(病)」だと、ビョーキ扱いである。 学問分野の名称で言えば、哲学・倫理学・宗教学・社会学・人類学・心理学などにあたる「倫理社会」も「社会科」なのだ。 これは、ブタ人間大学のブタ商人学部、ブタ人間近代経済学部とは正反対のものである。 だから、慶應の経済学部には入試に「国語」もなければ「社会」もなかったのだ。 英語と数学ができれば、太宰治の『人間失格』なんて知らないでもよろしいというのが慶應の経済学部である。 実際、慶應の経済学部には国立大学の「理系」の学部を落ちて来たという人がけっこういた。 慶應の経済学部は文学や哲学の本を子供の頃から読んできたような人間という意味での「文系」頭の人間の行く所ではない。 そうではなく、文学や哲学なんかそんなもの何の価値があるんだと思っていて、又、口にだして言うような人間という意味での「理系」頭の人間が行く所である。 旧姓S野が主張する、「理科よりも社会科の成績がいい」「文学・哲学の本などを読んできた人間である」という理由により「文系」よと言うのなら、それは思考が逆立ちしている。 文学・哲学の本を子供の頃から読んできた人間はブタ人間大学のブタ近代経済学部は正反対のものである。

  次回http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_6.html 、 両親が離婚した人間より両親が離婚しない人間は「家族の政治学」で苦労しないか? 「両親が離婚した」人間というのは、エライのか? について述べる。
 (2017.3.29.) 

☆ 受験生へのエール
1.受ける大学学部を「理科と社会科はどちらの成績がいいか」などで決めてはならない http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_1.html
2.文系か理系かどちらと言い難い学問分野があり、複数学部にある学科がある http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_2.html
3.「受験は頭でやるもんや」、及、「覚える型人間」か「考える型人間」か http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_3.html
4.「燃える人間」か「燃えない人間」か、「科学論理型」か「現状妥協型」かhttp://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_4.html
5.「アカデミック型」か「実用型」か、ブタ人間はお好き?〔今回〕
6.両親が離婚した人間より離婚しない人間は「家族の政治学」で苦労しないか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_6.html
7.「会社員型」か「非会社員型」か。親には息子に「所有権」があるのか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_7.html
8.文学的素養があるから経済学部に行けと言う女とないから行ってはだめだという男 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201703/article_8.html 


ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)
岩波書店
プラトン

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



現代精神医学解体の論理 (1975年)
岩崎学術出版社
森山 公夫

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 現代精神医学解体の論理 (1975年) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



シューベルト:歌曲集「冬の旅」
ユニバーサル ミュージック クラシック
2008-01-23
フィッシャー=ディースカウ(ディートリヒ)

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by シューベルト:歌曲集「冬の旅」 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「アカデミック型」か「実用型」か、ブタ人間はお好き?―受験生へのエール【5】 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる