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zoom RSS 正月が来ると思いだすこと[2]お年玉は「ちょき〜ん」は悲しかった。年玉は全額はとりあげるべきでない

<<   作成日時 : 2017/01/06 19:26   >>

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[第268回]
    正月が来ると思いだすことがいくつかある。 私が子供の頃、我が家は金持ちだったか貧乏だったかというと、「中くらい」じゃないかと私は思っていた。 住んでいる家はとりあえず一戸建ての持ち家に住んでいたが、ものすごい豪邸でも何でもなかった。 北と西に道路がある角地だったが東隣の家、その南の家、西向いの家は我が家と同じくらいの大きさの家だったし、幼稚園の同級生の家に遊びに行くと我が家と同じくらいの家が多かった。 北向いの家は我が家よりも大きかった。もっとも、住んでいる家が小さくても、あるいは、町営住宅か市営住宅でやす〜い借家に住んでて実は社長で年収いっぱいあるなんて人もあるみたいだけれども、住んでいる家は近所の家と同じくらいで幼稚園の同級生の家とも同じくらいだった。 幼稚園の同級生で我が家よりもっと広い家に住んでいる医者屋の息子がいたし、小学校の同級生で住んでいる家は無茶苦茶大きいわけでもないが家にお手伝いさんがいて、遊びに行った時に、子供同士でもめるとお手伝いさんが口出してそいつに加担するという家があり、なんか変な家だなと思った経験があり、そいつは遊びに行った時に親からもらってきたお小遣いが私や他の人間とは1桁違った。 近所に1つかなりみすぼらしいアパートがあって、たぶん、そこの住人はあまり金持ちではなかったのではないかと思うから、そこの住人よりは我が家の方が裕福なのかなと思っていた。父は「わしはえらいねんぞお」と口にする人間だったから、多少は会社で出世させてもらっていたのかもしれないが、それほどえらい感じはしなかったので、だから、「中くらい」かと思っていた。
    しかし、何か欲しいものがあった時に買ってもらえるかどうかという点になると、我が家は貧乏だった。 幼稚園や小学校の低学年の時、男の同級生の家に行くと、どこの家に行っても「野球盤」というゲームがあって、それがおもしろかったのだが、唯一、我が家にだけなかった。 男の子の家でも女の子の家でも遊びに行くと、「モノポリ」というゲームがどこの家に行ってもあった。インターネットで検索すると今でもあるようで、パソコンに入れて遊ぶこともできるようだが、それが幼稚園から小学校の低学年の時に男の子の家でも女の子の家にでもあったのだが、唯一、我が家にだけなかった。欲しかったが買ってもらえなかった。 幼稚園で紙芝居というものを教えてもらい、友達の家に遊びに行くと、百貨店のおもちゃ売り場で売っていた紙芝居を買ってもらって持っていた者が何人かいたが我が家は百貨店に行った時、欲しいと言っても母から「いけません」と言われて買ってもらえなかった。 近所にアイスクリームを売っている店があった。 今、コンビニで売っているアイスクリームというのは、100円くらいのものがあって、中に200円とかするものがあるが、その頃、アイスクリームは10円というものと20円というものがあった。 アイスクリームの価格による物価スライド制を適用するならば、今の物価はその頃の10倍になっているということか。 私はその店でアイスクリームを買ってもらったことは何度もあったがいつも10円のもので、20円のものは絶対に買ってもらえなかった。一度でいいから20円のアイスクリームを食べてみたいなあ〜あ・・と思い続けていたのだが、ある時、幼稚園の同級生によそも同じだろうと思ってそれを言うと、「なんでやのお〜ん。 そんなん、ぼく、何度も食べたでえ〜え」と言われ、20円のアイスクリームは買ってもらえないのは我が家だけだったことを知った。  最近では皮をむかずに食べることができるぶどうというものがスーパーで売られていたりするが、私が小学校に行くか行かないかの頃、「種無しブドウ」というもの、今は「デラウエア」という名称で売られているぶどうが、種がない、すごい! て感じでおいしかった。 今も、デラウエアはなつかしさとともに大好きだ・・・が、その頃、我が家で買ってもらえるブドウはデラウエアか巨砲だった。商店街の八百屋・果物屋の前を通ると、黄緑色のマスカットが置かれていて魅力的で、一度、あれを食べてみたいと思ったが、母が買い物に行くときに一緒に行き、マスカットが置かれている果物屋の前で、あれ欲しいと言っても「いけません」と言って絶対に買ってもらえなかった。一度、食べてみたいものだと思って、友達の家でも同じようなものだろうと思って言うと、「なんでえ。 そんなもん、ぼくら、何度でも食べたでえ〜え」と言われたので、マスカットを食べないのは我が家だけだと知った。 大阪の心斎橋に大丸と そごう の2軒の百貨店があった。今はそごうの心斎橋店は無くなり、そごうが立て替えた新しいビルは大丸の新館になっている。 大丸の心斎橋店はウィリアム=メレル=ヴォーリズの設計で、今は無くなった そごう の心斎橋店は村野健吾の設計によるものだったと知ったのは建築業界に就職した後、30代になってからだった。 親が買い物に行く時についていった際、大丸の地下で売られていた「うに」は子供にとってもおいしかった。 この場合の「うに」とは寿司のネタになるような「うに」ではなく、「ねりうに」「つぶうに」などの「うに」である。 しかし、我が家では買ってもらえるのは常に「ねりうに」だった。 「つぶうに」の他、「数の子うに」とか「くらげうに」とかいろいろあったのだが、一番安い「ねりうに」しか買ってもらえなかった。 一度、他のものも食べてみたいと思ったが、「ねりうに」以外は絶対に買ってもらえなかった。よそも同じようなものだと思って、幼稚園の同級生にそれを言うと、「なんでえ。そんなん、ぼくら、いくらでも食べたでえ〜え」と言われたので、「ねりうに」しか買ってもらえないのは我が家だけだったと知った。 家が金持ちか貧乏かと子供が欲しい物を買ってもらえるか買ってもらえないかは必ずしも比例関係にはない。 近所の言っちゃ悪いがみすぼらしいアパートに住んでいた小学校の同級生の家に行った時、そいつの家には、4000円のゴジラだったか4200円のバルゴンだったかのおもちゃがあった。我が家では絶対買ってもらえない。小学校の低学年の時、小学校からの帰り道にあった文具やのショーウインドウに昆虫採集セットが置いてあり、同級生で買ってもらって持っていた者が何人もいたが我が家では絶対に買ってもらえなかった。「三匹の侍」というテレビ番組の影響か、百貨店のおもちゃ売り場でおもちゃの「刀」が売っていた。我が家ではプラスチックの「刀」を買ってもらったが、友達の家に遊びに行くとそれよりも高級の金属製の「刀」(といっても刃はついていないけれども)を買ってもらって持っている人間が何人もいたが、我が家ではそれは買ってもらえなかった(もっとも、刃がついていなくても金属製の「刀」は子供が振り回すと危険なので、私が親でもこれは子供に買わない方がいいとは思うが)。 小学生の4年の時に引っ越したのだが、引っ越した先は山手で坂を登って行った山の中腹だったのだが、自転車だと坂道はきつい。 同級生で坂の下に住んでいる人間で、10段切り替えとか20段切り替えとかいうサイクリング用の自転車を買ってもらって乗っていた人間がいたが、我が家には3段切り替えの家族用の自転車しかなかった。 ・・こういうことを述べ出すときりがないし、読んでくださっている方にとってもそれほどおもしろくもないかもしれないので、ほどほどのところでやめておこう。
   ともかく、我が家は特別に金持ちではないが特別の貧乏でもないというくらいの家庭だったと子供の頃の私は思っていたのだが、子供に買ってもらえるものはよそと比べて見ると、買ってもらえない方の度合が大きかった。 金持ちでもないのに子供に何でも買う親というのもいるが、そんなことしているから貧乏なんだという人もいるかもしれないが、そうではなく、金持ちじゃないから、むしろ、子供には惨めな思いをさせたくないと思って何でも買ってやるようにしていたという親もあったかもしれないが、我が家はよそとの比較で見るならば買ってもらえない方の家だったのだ。 但し、上記に述べたように、20円のアイスクリームは買ってもらえなかったが10円のアイスクリームは買ってもらえたし、マスカットは買ってもらえなかったがデラウエアは買ってもらえたのであり、「つぶうに」や「くらげうに」「数の子うに」は買ってもらえなかったが「ねりうに」は買ってもらえたのであり、まったく何も買ってもらえなかったというわけではない。  又、父が話していたのだが、父が子供の頃、よその家ではクリスマスになるとサンタクロースがやってきて何かプレゼントをくれたのだが、自分の所だけどんなに頑張ってもサンタクロースは来なかった、どうしてだろ、どうしてだろとずいぶんと考えたというのだが、私の所にはサンタクロースは来て毎年何かプレゼントをくれたので、その点は、「もらえた方」だったということになるだろう・・・けれども、やっぱり、幼稚園や小学校の同級生との比較では、買ってもらえない方の家庭であったのは間違いない。
   幼稚園の年少組の時だったと思う。 正月に親戚のおじさん・おばさん、おじいさん・おばあさんからお年玉をもらった。 はっきりとした金額はもう忘れてしまった。 これで、今まで欲しいと思っていたが買ってもらえなかった物を買うことができる♪ と思ってうれしかった。 「『ありがとうございます』と言いなさい」と母から言われて、心より「ありがとうございます」と言った。 「◇◇を買っていい?」と親にきけば、よほどおかしな物でなければ、「いいよ」と言ってくれて一緒に買いに行ってくれる・・・・だろうと思った。 幼稚園の同級生はたいていそうだったようだ・・・・が我が家は違った。 正月の3日間が過ぎた日、父がおもむろに言ったのだ。 「お年玉は使わずに貯金しなさい」と。

   「いやや」と答えた。「絶対、いやや」と。 父はそんなことで動じることはない。「なんで、嫌やねん。 お年玉は使わずに全額貯金しなさい」と。 まさか、そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。 「いやや。せっかくもらったのに、盗られるのはいやや」と答えた。 そうすると、そういう場合にしゃしゃり出て来るやつが我が家にはいるのだ。 上の姉だ。 父は私が20歳くらいになったころから、「わしとT子さんはドイツ人でやなあ、あんたあはチャンコロ。 民族が違うねんぞ、民族が。わしやT子さんはドイツ人として、常にひとに命令しなければならない、常にひとを服従させなければならないと神さまから命じられてこの世に生まれてきた人間やねん。それに対して、あんたあはチャンコロとして常に人に服従しなければならない、常に人に支配されなければならないと決められて生まれてきた人間やねんぞ。民族の違いを忘れるな」と何度も何度も毎日毎日言うようになったが、その「ドイツ人」のT子さんがやってきて言ったのだ。 「盗られるのと違うねん。 貯金ていうのは、貯金すると毎年利子がついて増えて得するねん」と。 「ほらほらほら、T子さんの言う通りや。 盗られるのとは違うんや。毎年増えて得するんや」と父は「ドイツ人のT子さん」の応援を得て言う。 「いやや。絶対にいやや。盗られるのはいやや」と子供は言う。 「何を言ってるの。 貯金を知らんのでしょ。貯金というのは毎年利子がついて増えて得するんや。盗られるのと違うんや」と「ドイツ人」は言う。 「いややあ〜あ。絶対にいややあ〜あ。 盗られるはいややあ〜あ」と「チャンコロ」は言う。 「なんで、わからんの、この子はあ。 貯金は盗られるのと違って得するんやて教えてあげてるでしょ。なんでわからんの」と「ドイツ人」は言う・・・・。
   結局、勝てなかった。全額、貯金させられた。 そして、その後、貯金通帳を見せられて、父は「ほら、ほら。こんなに増えた。 得した、得した、得したねえ〜え」と私に言ったのだが・・・・。 子供にとって「得した」かというと・・・・、そんなもん、得したわけがないわなあ。 5歳の子供に5年間の定期預金にお年玉を全額入れさせると、今までの人生と同じだけの年数経たないとそれは使えないのであり、10歳の時に定期預金が満期になって出てきたとしても、どうせ、また、「貯金しなさい」と言われるのは目に見えている。 もしくは、「それで、勉強のものを買いなさい」と言われるのははっきりしている。 「勉強のもの」なんて、別にお年玉をもらわなくても、嫌でも買われてしまうのだ。嫌でも買われて、嫌でもその「勉強のもの」をさせられるのだ。 それなら、お年玉なんてなくたっていいのだ。 結局、そのお年玉を貯金したものがどうなったのか、はっきりとした記憶はない。 しかし、遊びに使う物を買わせてもらったということはないので、「勉強のもの」を買われたのかもしれないし、親の会計に参入されたのかもしれない。 そもそも、5歳の子供がお年玉をもらって、これで、今まで欲しいと思ったけれども買ってもらえなかったものを買える♪ と思ったところを「全額貯金しなさい」と取り上げるというのは、たとえ、何年か後でそれを本人が自由に使えるお金として金額が増えて戻ってきたとしても、10歳の人間が5歳の子供が欲しい物を買ったって何の意味もない。 10歳の人間、15歳の人間が5歳の子供が欲しいと思うようなものを「増えた」金額で「増えた」だけ買ってもおもしろくも楽しくもない。

   1月に幼稚園が始まると、同級生の間で、「〇〇くんはお年玉で何買ったあ?」という話題が話される。「ちょき〜ん」などというものを「買った」幼稚園児はクラスで私ひとりだけだった。 「ちょきんて、それ、いったい、何やあ〜あ?」と何人もに言われたが、「ちょき〜ん」と言うしかなかった。 情けなかった。 貯金通帳に利子が記載されると、父はそのたびに「ほら、ほら、ほら。 増えた、増えた、得した、得した。 あんた、得したねえ〜え」と言ったが、たしかに金額は増えているのだが、だからといってうれしくはなかった。

   最近の子供がもらったお年玉の金額を聞くと、びっくりするような高額をもらっているケースがある。 もちろん、私が子供の頃とは物価が違うので同じに考えることはできないが、それにしても、子供にそこまでの金額のお金をやっていいのかと思うことがある。 もし、親の判断で、子供がもらったお年玉の金額が子供にとっては多すぎると思ったならば、たとえば、半分を貯金させるとかはいいと思う。 しかし、全額貯金させて取り上げてしまうというのは、それは残酷だと私は思う。 なんで、そんなことしたがるのかなあ〜あ・・・と思うが、そういうおっさんだったのだ、うちの父親は。 世の中の家庭を金持ちか貧乏か1〜10の10段階に分けたとして、我が家はどのくらいだったかはよくわからないが、少なくとも1の最低貧乏ではなく10の最高金持ちでもなかったと思うのだが、そういうおっさんだったのだ。

   小学校の1年の夏休みに、父の会社の人たちが社員旅行として小豆島に行くのに一緒に連れて行ってもらったということがあった。 最近では、運動をする際や夏場など、脱水症状を起こさないように水分補給を怠らないようにしましょうということになったが、その頃はそうではなく、運動をする時に、終わってからならいいが、運動をしている最中に水分をとるとばてる、夏場、水を多く飲むと健康によくない・・・と言われていた。 なんか、なんだか、無責任なことを指導する人間がいるもんだなあと最近になって思う。 だいたい、「聖徳太子はいなかった」なんて説も出てきているわけで、そうなると、今さらそんなこと言われてもなあ〜あ・・・・。小学校の社会科から中学校の歴史、高校の日本史と学んできたあれはいったい何だったのだ? て感じだが。 聖徳太子はさておき、その頃、夏場はのどが渇いても水分は少しだけ飲むようにして、がぶがぶのんではいけないとされていたのだ。 それで、私は小さい水筒を方から下げていき、父と下の姉(「ドイツ人」の方の姉ではなく、「日本人」の方の姉)と3人で小豆島への社員旅行に一緒に行ったのだ。 会社の人たちには男性にも女性のも親切にしてもらい一緒に遊んでもらってうれしかった。 但し、父の勤め先は化粧品会社で、一緒に行った女性は美容部員さんだったため、旅館に着くと、美容部員さんは全員がいっせいに化粧を始めたのだが、小学校の1年生はそれを見て、何か異様なものを見たような気持がした・・・・のだが、父はそんなことを考える頭のある人間ではなかった。
   小豆島から大阪に帰るフェリーボートの中、全員が飲めるようにお茶を旅館で大きな水筒に入れてもらってくればよかったのだが、それを入れてもらわなかったため、お茶は私が肩から下げている子供用の小さな水筒に入ったものしかなかった。 船の中でお茶が欲しいと言う人があったので、私が肩からさげていた小さな水筒に入ったお茶をわけてあげた。 3日間、一緒に過ごして仲間のように思っていたので、子供の方は分けてあげるのはむしろうれしかったのだ・・・・が、なにしろ、小さい水筒、子供用の水筒の中でも一番小さい水筒だったので、大人に分けてしまうとなくなるおそれがある。 ・・・で、なくなったのだ。 その為、自分が飲みたいと思った時になると、お茶はなかったのだ。 それで、「のどが渇いた」と言うと、父が「よし。売店でジュース買ってやろう」と言って船の売店に行ったが、小豆島から大阪の弁天埠頭まではそれほど時間が長くないので弁天埠頭が航路の後半になると売店は閉めてしまうようだった。父は「弁天埠頭に着いたら買ってやる」と言うので弁天埠頭まで我慢することにした。 ところが。 弁天埠頭に着くと、父は「弁天町行きのバスが来てる、バス来てる。 弁天町の駅に着いたら買ってやる」と言い、そして、苦痛にあえぎながらバスに乗って弁天町駅に着くと、今度は父は「弁天町のプラットホームで買ってやる」と言い出したのだ。 今、考えると、このくらいの時期に気づくべきだったと思う。 そして、弁天町駅のプラットホームに行くと、「電車来た、電車来た、電車来た。 天王寺の駅に着いたら買ってやる」とまたもや言い出したのだ。 大阪環状線というのは、ごく短い間隔で電車は来るので、たとえ、次の電車を待ってもたいして待たないうちに次の電車は来るし、逆に、「電車来た、電車来た」と言っても、大阪環状線の電車はたいてい来るのだ。 そして、その電車に乗って天王寺駅に着くと、今度こそジュースを買ってもらえると思うと、「電車きてる、電車きてる。 南田辺の駅に着いたら買ってやる。南田辺の駅に着いたら」と父は言うのだ。 最近では、JR阪和線の電車は、快速は天王寺から大阪環状線の西側に入って大阪駅までか京橋駅まで行き、特急は天王寺から大阪環状線を経て梅田貨物線(といっても客車が今は走っているのだが)を通って新大阪から京都まで行くのだが、その頃は、天王寺駅は国鉄阪和線のターミナル駅で、「普通」(各駅停車)・「快速」・「直行」(区間快速)に急行「きのくに」「紀州」・特急「くろしお」とすべての電車・気動車が天王寺を始発にしていたので、「電車来てる」と言っても、始発駅だからたいてい「電車来てる」のだ。 そして、始発駅なので、来ていてもすぐに出発するとは限らないのだ。 私はジュースを買ってほしいと言ったのではない。のどが本当に乾いて苦しいので水が飲みたいと言ったのだ。最近では駅のトイレの水は上水道ではない場合が増えてきているがその頃はたいてい上水道であり、上水道の水も今よりおいしかったのではないかと思う。 「まだ、出ないじゃない。水 飲みたい」と言うと、「出る出る出る。もう出る、もう。もう、電車でます」と言うが、な〜かなか出ないのだ。天王寺駅の各停は。 そして、南田辺駅にやっと着いた時、もう、乗る電車はないのだから、いくら何でも今度は買ってもらえると思った時、父はこう言ったのだ。「もうすぐ、家です。もうすぐ、家」と。そして、家に着くと、「ほうら、着いたあ」とおっさんは言ったのだが、納得いかなかった。 結局、あれはいったい何だったのだろうか・・・。 なんで、あんなことしなければならないのかと思うのだが、父としては、子供が何か欲しがった時には、そういう策略で買わないようにするというのが頭にも体にもしみついていたということだったようだ。 それならそれで、私は自分が飲めない水筒をなぜ肩からさげて行かなければならなかったのかということになるが、会社の人たちは、配慮は足らないがそれほど悪気ではなく、お茶を分けてもらえるのならもらおうと思って飲んだだけだったかもしれないが、小学校の1年の子供が肩から下げているごく小さい水筒のお茶を大人が何人もで「ちょうだい、ちょうだい」と言って飲めば無くなってしまって子供が飲む分が無くなってしまうということは、やっぱり、配慮するべきものだったのではないかとは思う。 それより、私には見た記憶があるのだ。 父が「配給、配給。 配給、配給♪」と言って私が肩から下げていた水筒を持って行って、特にお茶を飲みたいと言っていたわけでもない人にまでお茶をいれてまわっていたのを。なんで、あんなことするのかなあ〜あ・・・・と思うが、そういうおっさんだったのだ。

    私が20歳になった時、父は「あんたには、よそと違って、欲しいものはどんなものでも、何でも何でも何でも何でも、ええもんばっかり買ってきてやってやってやってやってきたから」と言い出したので、いくらなんでもそんなことを言いだすかと驚いて、「そんなことない」と言うと、おっさんは何と言ったかというと。 「こりぁ、ビョーキちゃうかあ。ビョーキやでえ。 ビョーキやから、何でも何でも何でも何でも、ええもんばっかり買ってもらってきたというのがわからんのやあ。ビョーキや、こいつは。間違いなく」と。 そう言ったのだ。 おっさんこそ、ビョーキと違うのかと思うが、その「ドイツ人」のおっさんが他界して、すでに15年が経った。

    子供の頃から、「よそと違って」欲しいと言っても買ってもらえないものが多かったし、よその子が遊んでいる時も勉強させられたし勉強した。 北野高校の1年の時に、ある先生が「北野高校というのは、エリートコースだあ。 だいたい、小学校の時からして北野に行くやつというのは生活が違いますよ。 うちの近所でも、北野に行くやつは小学校の時から勉強しとる。 豊中に行くやつは、自転車乗って遊んどるわ」と言われたことがあったが、実際、私はそういう生活を送ってきた。 そうやって努力してきた以上は、大学に進学する時には、自分が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行かせてもらって就きたい仕事につかせてもらえるはずだ・・・・と思ってきたのだが、高校の3年になると違ってきた。 「わしが決めたる」と。 浪人までするとさらに変わってしまった。
   「浪人したのだから、親の言う通りするのが当然だろうが」と。 そういう話になってきた。 いったい、俺は今まで何の為に、努力してきたのか。 よその子供が遊んでいる時も勉強してきたのはこんな目に合わされるためだったのか。 母が言うのは「何でもお金を出す者に決める権利があるはずや」。 「今まで誰がお金を出して育てたんや。あんたがお金を出してあんたを育てたのやないはずや。親が出したんやから親に権利があるはずや」と。「親には息子に対しては所有権という権利がある」と。 父は別のことを言うのだ。「あんたは自分で産まれたのとは違うはずや。親に産んでもらったんや。産んでくださってもらってあげていただいてくださってもらった親に感謝せんといかんのや」と。 なるほど、たしかに、出産は大変なことだろうから(「だろうから」というのは、産むのは女であって男は出産の経験はしたいと思ってもやりようがないので、だから、「だろうから」と推定するしかない)、たしかに大変な思いをして産んでくれた母親にはその点については大いに感謝するべきだろう。 しかし、産んだのは母親であって、おっさんと違うだろうが、出産に関しては男は特に何もやってないじゃないかと思ったのだ。 ところが、父の説は違うのだ。 「女は単なる畑じゃ。 甘ったれるなよ。 茄子でもキュウリでもそうやろ。畑が芽を出したのとは違うんや。 種を畑に植えてくださってあげてやってあげてやってやってやあってくださってもらってもらっていただいてくださってあげてやってくださってやった方のおかげで芽を出すことができたんや。 それで、芽が出たならば育てるのは畑の役目じゃ。 畑が育てて実がなるようになったら、権利は種を植えた者にあるんや。 畑に権利があるのとは違うんじゃ。ましてや、茄やキュウリに権利があるわけがない。甘ったれるなよ、チャンコロ、甘ったれるなよ、チャンコロ!」と。 それが父の説だった。
   芥川龍之介の『トロッコ』という小説がある。 子供の頃、近くでトロッコを使って人夫が作業をしていた所があり、そのトロッコを一度押してみたいと思っていたが、ある時、重いものを載せたトロッコを人夫何人かが押すのを見て、おそるおそる一緒に押そうとすると、押してくれるのかと歓迎され、坂を上がりきると、もう、押さなくていいと言われるかと思うと、乗れと言われてトロッコに乗せてもらい、そうやって一緒にずっと進んだものの、もう、帰ってくれた方がいいと思うようになったものの帰らず、そのうち、俺たちは向こうの街で泊まることになっているから、おまえはもう帰った方がいい、と言われて、一緒に帰ってくれるものとばっかり思っていたら、1人で帰らないといけないのかとショックを受け、しかたないしに、暗い道を逆方向の走って帰宅したが、その際、夜の闇の中に果てしなく続く線路を見ながら走った経験は、大人になって、それが人生であるかのように思い出される・・・・という、なんか、そういう話だったはずだ・・・・・が、私の場合、小学校の1年の時、弁天埠頭に着いたらジュースを買ってやると言われて我慢し、弁天埠頭に着いたら弁天町の駅に着いたら買ってやると言われ、弁天町に着いたら弁天町の駅のプラットホームで買ってやると言われ、弁天町の駅のプラットホームに行くと、天王寺の駅で買ってやると言われ、天王寺の駅に着いたら今度は南田辺の駅で買ってやると言われ、南田辺の駅に着いたら、今度は「もうすぐ、家です、もうすぐ、家!」と言われて結局最後まで買ってもらえなかった・・・というその経験が、なんだか、小学校の時は勉強していい成績を残して中学校に行けばと言われ、中学校に行くと北野高校に入ればと言われ、北野高校に行って勉強して、旧帝大系国立大学に合格できる可能性が十分あるという成績を模擬試験でとることができた、さあ、行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をしてつきたい仕事につかせてもらえる・・・・と思うと、「甘ったれるな、チャンコロ! わしが決める役じゃ、わしがああ。 のぼせあがるなよ、チャンコロ。 わしとおまえとは民族が違うんやぞ、チャンコロ。 ゆめゆめ民族の違いを忘れるなよよ、チャンコロ。 わしはドイツ人の民族で、おまえはチャンコロやねんぞ、チャンコロ。 チャンコロはチャンコロらしくしろや、チャンコロ。おまえはわしいのようなドイツ人に何でも命令されて、せっせせっせとやる民族。わしいは自分ではやらずに人になんでもああせえこうせえと命令する民族、即ちドイツ人の民族。 心得違いを起こすでないぞ、チャンコロ」と言われるに至ってしまったのだ。 結局、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強に励んで来たのは、自分で自分の首を絞めるためだったということだった・・・・・。
    いやだ、いやだと思いながら、日本で一番嫌な大学の一番嫌な学部に暴力と脅迫で行かされてしまい、いやだいやだと思いながら、結局、卒業した。 「撃ちてしやまん、一億火の玉。 欲しがりません、勝つまでは。戸締り用心火の用心、わしに親孝行せえよお、わしにじゃ、わしにいい〜い。わしに、わしに、わしにい〜い。マッチ一本火事の元」とかおっさんは毎日毎日言い続けたが、結局、あの小豆島からの帰り道の経験は、その時限定のものではなく、私の人生そのものだったということか・・・・・。

    「ドイツ人」のおっさんが言うには「世の中というものは、自分では考えずに人に命令されて働く人間ばっかしでもいかんし、自分ではやらずに人に命令する人間だけでもいかんのや。 神さまは大変賢明なお方であって、すべての人間を2つに分けてお造りになっている。 民族もそうやろ。 ドイツ人とかアメリカ人というのは人に命令するための民族でやなあ、チャンコロというのは人から命令されるための民族として神さまがお造りになったわけや。 そやからやなあ、わしはドイツ人でアメリカ人やねん。 それに対して、あんたはチャンコロとして神さまは作られたわけや。これは神さまがお決めになったことであって、どんなにあがこうが決して変えることはできないものなんや。神さまに逆らってはならぬぞ、チャンコロ。 そしてやなあ、神さまは大変哀れみ深いお方であってやなあ、チャンコロにもまたチャンコロとしての人生を用意してくださっているわけや。 即ち、服従の人生というものを神さまはあんたなんかのチャンコロには用意してくださっているわけや。神さまに感謝しろ!」と。そういうものらしい。 毎日毎日何度も何度もそういうことを耳鳴りがするくらいに言われて来て、そして、「神さま」というものが私は嫌いになった。 「神さま」なんかいなければいいのに、と思うようになった。
    ある時、ふと思い出したのだ。 父が言うには、父と我が家の兄弟の中では父にいつでもつく上の姉と、それから父の親友で医者屋のM川と、父の部下で父のおかげで昇進させてもらった人らしいM尾さんと、この4人とそれに聖徳太子とヒットラー総統の2人を合わせ、この6人が、キリスト教の「6大聖人」で、いずれも「ドイツ人」らしいのだ。 私はというと、「あんたはロスケでイタコでチャンコロや」と言うのだ。「ロスケ」とはロシア人のことで裏切者・卑怯者を意味し、「イタコ」とはイタリア人のことで根性無しを意味し、「チャンコロ」とは中国人のことで常に人に支配しなければならない人間として神さまから作られた民族を意味するそうだ。私がその3つを兼ね備えた民族らしい。 一番よくわからんのは、アメリカ合衆国には中国系アメリカ合衆国人という、血筋としては中国人の血筋だけれども国籍はアメリカ合衆国という人がいるのだがそういうひとは「支配するための民族」なのか「支配されるための民族」なのか、なんかようわからんのだが、ともかく、毎日毎日そう言われてきたおかげで、私はロシアとイタリアと中国にはなんだか親しみを感じるようになり、ドイツとアメリカ合衆国にはなんかあまり親しみを感じなくなった。なにしろ、「ロスケでイタコでチャンコロ」ですから。 もうひとつよくわからんのは、ヒットラー総統というのはドイツ人だったはずで、ユダヤ人だったのではないかという説もあるらしいが、そうではない可能性の方が高いというのでドイツ人でいいのだろうけれども、聖徳太子というのは日本人だとばっかり思っていたら、ドイツ人だったらしいのだ。 関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』(1999.11.5.KKベストセラーズ ワニ文庫)とか読むと、どうも、聖徳太子というのは実在した人間ではなく、蘇我入鹿をクーデターで暗殺した中大兄と藤原鎌足が自分たちの行為を正当化するために蘇我入鹿を極悪人であるかのように言うとともに、蘇我入鹿がやったことでプラスに評価されるようなものはすべて聖徳太子という架空の人間の行為にしてしまった・・・ということらしいのだが、そうなると、蘇我入鹿もドイツ人だったということなのか・・・・・?  蘇我入鹿が何人だったかはさておき、正真正銘ドイツ人だったらしいフリードリヒ=ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で書いていたことを思い出したのだが、どう書かれていたかというと、「神は死んだ」と。 そう書いてあったのだ。 それで、呪縛は解けた。 ≪すべての人間を「支配するための民族」と「支配されるための民族」に分けてお造りになった賢明な神さま≫というのは、死んだのだ。「神は死んだ」。

    しかし、「すべての人間を支配する民族と支配されるための民族に分けてお造りになる哀れみ深い神様」というのは、「神は死んだ」ということに気づいたのはいいけれども、人間人生70年と考えても80年と考えても、もう残りの方が少なくなってしまった。 父と話をすると、親友で医者屋のM川から知恵をつけられたらしい論法で、「自分の主張ばっかりしてはいかんだろうが。譲らんといかんだろうが」といったことを言っていたのだが、しかたなしに譲るとすると、こちらが10と言い、父がマイナス10と主張したとすると、しかたなしに、10と言っていたものを8にすると、今度はまた、10とマイナス10ではなく、8とマイナス10との間で8から譲歩しろという主張をするようになる。 もういいわと絶望的な気持ちになって0まで譲歩したとすると、今度は0とマイナス10との間で0の側に譲歩しろと主張するようになり、結局、マイナス10まで持って行こうとする。 これは、かつて味わった経験だなあと思うようになった。 弁天埠頭に着いたら買ってやると言って弁天埠頭に着くと弁天町の駅に着いたら買ってやるに変わり、弁天町の駅につくとプラットホームで買ってやるに変わり、弁天町駅のプラットホームに行くと天王寺の駅で買ってやるに変わり、天王寺駅に行くと南田辺駅で買ってやるに変わり、南田辺駅に着くと「もうすぐ家です、もうすぐ家!」になってしまう。 それと一緒だった。

    私が親ならば、子供がもらったお年玉というものは、子供に使わせてやらないといけないと思う。 あまりにももらった金額が大きいという場合には、半分とか3分の1とかを貯金させるというのは悪くないと思うが、全額貯金させて使わせないというのは、それは残酷であるし、もらったお年玉でほしいと思うものを買うというのは、それは子供にとっては買い物の練習でもあると思うのだ。 あまりにももらった金額が大きいという場合には、子供にきっちりと説明をした上で半分を貯金させるというのは悪くないと思うし、その場合、半分は買い物の練習で半分を使って貯金というものを理解するということになって悪くないと思うが、幼稚園でクラスの他の園児が誰もがお年玉で何を買ったと言って大喜びして話をしているのに、「〇〇君はお年玉で何買ったあ?」と言われて、「ちょき〜ん」というのは、私が親ならそんなかわいそうなことはできない・・・・が、うちの父親はそれをするおっさんだったのだ。 「わしが子供の頃、クリスマスにうちの家だけ、なぜかサンタクロースが来ないんや」とそれがつらかったと話しながら、私だけお年玉を取り上げるということについては何とも思わないおっさんだった。



    「お年玉」についてはもう1つ思い出がある。 1990年代中頃、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ で福島県いわき市の営業所にいた時のことだが、1月の初め、同じ営業所にいたS藤さん(男。 当時、40代)が、いきなり、「おまえは、もう30を過ぎているのにまだ結婚しないで子供を作らない非国民だ。 俺の子供はまだ10代なのに結婚して子供も作った。俺の子供は少子高齢化対策に協力してお国に尽くし社会貢献しているのに、おまえは非国民だ。 非国民は罰として、お国のために尽くしている俺に年玉よこせ! カネよこせ」と言って手を出してきたのだ。 「何、言ってるんだ」と取り合わずにいると、「年玉よこせ、年玉よこせ、年玉よこせ」と言って寄って来て、逃げると追いかけてきて「年玉よこせ、非国民! 年玉よこせ、非国民!」と言いながらついて来て困った。 S藤さんの口から「非国民」という用語が出てくるというのは、ひとつにはS藤さんが「宗教右翼」と言われる団体の1つである霊友会の会員だということがあるように思われる。 S藤さんはいわき地区の従業員の間で「S藤さんはアルツハイマーだからしかたない」と言われていたのだけれども、アルツハイマーの人は何を言ってもいい、何をやってもいいというものでもないと思う。
   S藤さんは同社の営業として在籍が長い方の人だったが独り立ちして仕事ができるとは言い難い人であり、私はこういったS藤さんの態度について我慢してきてあげただけでなく、独り立ちしてできないS藤さんをずいぶんと助けてあげたものだが、ある時、総務部長の天野雅弘と話していた時に、天野雅弘が私がS藤さんなどを助けてきてあげたことを理解できていないようなので、「アフツハイマーの人をずいぶんと助けてあげたりしてきたんですよ」と言うと、天野雅弘が「アルツハイマーとは何だ」と言い出したことがあった。 『がきデカ』という漫画では、こまわりの同級生の西城くんというのが毎度毎度「もう、おまえなんかとは絶交だ」と叫びながら次回になるとまたつきあっていたのだが、それと似た感じで、このアルツハイマーのくそじじいとは絶交だという気持ちに何度も何度もならされながらも、この頭の悪いじいさんを追い出してもこの人は他に行く所はないだろうし我慢してみんなで面倒見てあげるしかないと思って我慢もすれば面倒も見てきてあげたのであり、特にいわき地区の従業員の中では私がS藤さんの面倒を一番見てきたのであり、総務部長から感謝してもらえこそすれ、「アルツハイマーとは何だ」と文句を言われる筋合いはない。「この人はアルツハイマーなのか狂牛病なのか何かわからないがそういう病気か何かなのだろうから我慢してあげて面倒みてあげるしかない」と思って我慢もすれば面倒も見てきてあげたのに、自分は何もしていない総務部長がおのれは何もしないでおいてそういう口をきくのなら、面倒みてあげるべきではなかったことになるし、上記のような言動を我慢してあげるべきではなかったことになる。(株)一条工務店は会社としては私に対する保護義務違反であり(株)一条工務店は債務不履行責任を問われる問題である。 さらに、営業本部長の天野隆夫が「女の子は気を使って気をつかってしてやらないと辞めてしまうから、相当気を使って口をきかないといけない。その点、男は辞めないから何を言ったっていいんだけれどもな」と私に発言したが、私の方では何を言われてもいいとは思っていない。 もし、S藤さんについて、「アルツハイマーとは何だ」⇒《 「この人はアルツハイマーか狂牛病か何かなのだから我慢してあげるしかしかたがない」と考えるとはけしからん 》と総務部長が主張するのなら、↑のS藤さんの言動も我慢するとはけしからんということになるわけであり、当然、会社はS藤さんのそのような言動を防止しなかったということに対して保護義務違反であり債務不履行責任が問われることになる。 「男には何を言ったっていい」と営業本部長の天野隆夫は発言したのだが、私の方では何を言われてもいいと認めた覚えはない。天野隆夫は「ぼくは学校でてないから(最終学歴:中卒 らしい)、だから、気さくで人間味があるんだ」と厚かましい文句を何度も口にしていたが、こういう傍若無人な発言をする男のことを「気さく」とも「人間味がある」ともとうてい思えない。 最終学歴:中卒の人間は実際には「気さく」でもなければ「人間味がある」わけでもないのに、ひとに「気さく」で「人間味がある」と無理矢理認めさせる権利があると彼は考えていたようだが、そんな「権利」など、ない。
    誰にだったか忘れたが、私は(株)一条工務店の会社にS藤さんのことを言ったことがある。「この人は、誰かある程度以上経験があって、ある程度以上しっかりしている人と同じ営業所に配属して、その人がS藤さんがやることを常に見るようにしないと危ないですよ」と。「私の場合は、入社がS藤さんより後だということと、年齢がS藤さんより下だということで、S藤さんはなめてしまって、私が面倒をみてあげても、見てもらえるもののように思ってしまっている。それではだめなんです。 S藤さんより前から在籍しているかせめて同じ頃に入社した人で、S藤さんより年上かせめて同年代の人で、なんらかの役職を会社からもらっている人と同じ営業所に配属して、その人が常に見るようにした方がいいですよ」と。 私がそう言っても聞かず、私がこの人に同じ営業所におられたのでは私にからみついてきてこちらの業務が妨げになるのでやめてほしいと言っても、言うと逆に意地になって嫌がらせのように私にくっつけたのですが、そうするとどうなったかというと。 私が栃木県の営業所に転勤していわき地区にいなくなった後、S藤さんは「市街化調整区域」という住宅を建ててはいけないことになっている地域に家を建てようとして、役所から取締りを受け、あやうく、(株)一条工務店は建築禁止になるところだったという。 私の父の勤め先の会社の初代の社長が、「あのアホはまったくどうしようもありませんわ」とぼやく中間管理職がいると、「アホはアホなりに使ったらええがな」と言ったという。「アホを使うのがきみの仕事と違うのか」と。S藤さんのような「困った人」ではあっても「とことん極悪人」でもなく「悪いのは頭」という人は(といっても人に迷惑をかけて「気持ちは悪くは悪くねえんだ」と威張って謝りもしない人が「気持ちは悪くない」か疑問ですが)、そういう人と認識して使わないといけない。「私の場合は、入社がS藤さんより後だということと、年齢がS藤さんより下だということで、S藤さんはなめてしまって、私が言ってもきかないし、私がしかたなしに面倒をみてあげても面倒みてもらえるもののように思ってしまっている。それではだめなんです。 S藤さんより前から在籍しているかせめて同じ頃に入社した人で、S藤さんより年上かせめて同年代の人で、なんらかの役職を会社からもらっている人と同じ営業所に配属して、その人が常に見るようにした方がいいですよ」と、そうしないと危ないですよ、と会社の為、又、S藤さんの為も思って言ったのですが・・・、せっかく私が会社のためを思って言っても、会社のためを思って言う人間を粗末にする会社は、このように「あやうく、いわき地区で(株)一条工務店は家を建てられなくなるところだった」という事態になる。

 (2017.1.6.) 

☆ 正月が来ると思いだすこと。
1.[第235回]《 正月が来れば思い出すこと。失った数字合わせゲーム。なぜか、貧乏な家庭の息子が工学部に行った・・・》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201601/article_1.html
2. 〔今回〕   


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正月が来ると思いだすこと[2]お年玉は「ちょき〜ん」は悲しかった。年玉は全額はとりあげるべきでない 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
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