哲建ルンバ

アクセスカウンタ

zoom RSS ニコライ堂(日本ハリストス正教会東京復活大聖堂)訪問、御茶の水界隈今昔―ニコライ堂、湯島聖堂と聖橋1

<<   作成日時 : 2015/12/06 11:07   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

[第231回]日本の教会建築(13)
【1】 ニコライ堂(日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂)
   JR「御茶ノ水」駅のすぐ南、東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅のすぐ西に、かの有名なニコライ堂がある。 前までは何度も行って外から見てきたが、内部に入らせてもらったことはなかった。
画像

(↑ 北側の道路から見た外観です。 この角度と東側の道路から見える外観は何度も見てきています。)

キリスト教の教会といっても、ここは、カトリックでもなし、プロテスタントでもない、「正教」なのだ。 ギリシア正教、というのか、ロシア正教なのか。 
  実は、私は、ここはロシア正教の教会だとばっかり思っていたが、ニコライ堂(東京復活大聖堂)の入口に書かれている説明書きによると、カトリックが日本のカトリック教会もバチカンのサンピエトロ寺院の傘下というのかにあるのと違って、 「正教」はそれぞれの国ごとに組織があり、ロシア正教の下に日本の正教会があるわけではないらしい。

   高校の時に学んだテキストを引っ張り出してみよう。
≪ 皇帝という言葉には、多くの民族からなる大国家の統一的支配者という意味もあるが、ヨーロッパではもともとローマ皇帝およびその後継者だけを皇帝といい、この称号をもつ君主はひとりと考えられた。 古代末期から中世にかけて、教会によって、皇帝とは神からキリスト教を守護し拡大する仕事を委託された支配者という観念がつけ加えられた。 西ローマ帝国の滅亡以後は、ビザンツ皇帝は西欧のゲルマン諸王国やローマ教会に対してみずからが全キリスト教世界を統一すべき唯一のローマ皇帝であることを認めさせていたが、ローマ教会がこれに対抗してカール大帝に戴冠して新たなローマ皇帝をつくると、けっきょくこの政治的現実およびキリスト教世界の2分(ギリシア正教とカトリック)を事実上認めざるをえなくなり、こうしてヨーロッパには2つの皇帝権が並立した。 以後ビザンツ皇帝権はロシア皇帝(ツァーリ)に継承され、カール大帝にはじまる中世の西ローマ皇帝権は、オットー1世依頼の神聖ローマ皇帝権にうけつがれていくのである。・・・・ ≫
≪ 東方のロシアの東スラブ族に建国の契機をあたえたのはノルマン人であった。 9世紀後半、スウェーデンのノルマン人(ルーシ)の首長ルーリック(?〜879)は、ロシアの通商上の要地ノブゴロドにはいって建国したが(862)、これがロシア国家の起源となった。 この国は9世紀末(882)拡大してキエフ公国(9〜13世紀)となったが、この間ノルマン人は急速にスラブ化して、その特色を失った。 キエフ公国は10世紀末ウラディミル1世(位980〜1015)のとき最盛期をむかえた。 かれはギリシア正教に改宗してこれを人民に強制するとともに、ビザンツ風の専制支配をおこなった。 ・・≫
(神田信夫・柴田三千雄ほか7名『世界の歴史』1976.3..5.山川出版社)

≪ 330年、コンスタンティヌス帝は都をローマから、ビザンティウムに移し、コンスタンチノープルと命名して、これを「新しいローマ」とよんだ。 395年、帝国の東西分治は確定した。 西の帝国はゲルマンの王によって理念的にうけつがれる。 東の帝国ではしだいにギリシア人が重きをなすようになり、ビザンチン帝国ともいわれるが、皇帝は国政・教会をともに統率し、ローマの法・文化を継承した。 ローマは一日にして成らなかったように、ローマは一日にして滅ぶことはなかった。 ≫
≪ 軍事的な遠征路、通商路としてさかんに利用されたドニエプル河流域のルートを通って、ビザンチン文化の影響はロシアに流れ込んだ。 それは「ロシアが成長し発達したのはビザンチンの影響の下においてである」といわれるほど、圧倒的なものであった。 ≫
(学習資料「世界史」編集委員会『学習資料 世界史』1974.4.1. ほるぷ総連合)
≪ ロシアの大司教たちはギリシア人であった。 大公たちはギリシア(東ローマ帝国)の王女たちと結婚すること、ボスフォラスを訪れることを楽しみとした。 ウラジミールとヤロスラーフによって建てられた多数の学校はギリシア人によってビザンツの手本にならって創立されたものである。 200年以上のあいだ、コンスタンチノープルとその娘(キエフ)とは商業・宗教・芸術によって密接な関係をもちつづけた。 
(「ロシアと『東洋』との交渉」『飯塚浩二著作集』3、平凡社 〔『学習資料 世界史』より孫引き〕)

   ローマのペテロの教会としてのサンピエトロ寺院を中心としたカトリックは、政治とつながりがまったくないということはないとしても、王とローマ教皇は別人であるのに対し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)においては、皇帝教皇主義(セザロパピズム)といって、皇帝が教皇でもあったわけです。 それが、ロシアに引き継がれ、ロシア革命までのロシアでは、皇帝が政治だけでなく宗教上の権威も握ることになっていたようです。
   カール=マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったというのですが、蔵原惟人『宗教について』(1978.5.25. 新日本新書)所収の『宗教に関する二、三の問題』で、蔵原惟人氏は、
1. カール=マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で1回だけ、この言葉を使用している。 エンゲルスはこの言葉はどこでも述べていない。
2. 「宗教はアヘンである」という言葉はマルクスが生きていた時代においてよく使われていた表現で、マルクスが最初に使った言葉ではない。マルクス以外にも、詩人のハイネ、哲学者のヘーゲルも使用している。
3. 「アヘン」という言葉には、「毒薬」という意味と、「なぐさめ」という意味があり、世の中には毒薬のような宗教も中にはあるけれども、マルクスは「宗教はアヘンである」という言葉を使用している時、あくまで、宗教は貧しい人々のなぐさめである、という意味で使用しており、毒薬だという意味ではこの言葉は使用していない。
ということを指摘されている。
   そして、マルクスとエンゲルスとレーニンでは、宗教批判がもっとも厳しいのはレーニンで、それは、ロシア革命までのロシアにおいては、宗教と政治は結びついていたことによる、ということを、蔵原惟人『宗教について』(新日本新書)所収の『浅野順一氏との対談』(1977)で述べられている。
≪[蔵原] 宗教批判はレーニンが一番激しいですね。 ロシア正教はツアーリズムと結びついたものでしたから。マルクスは否定的ではないようです。 アヘンである、といっていますが、現実の苦しみに対する慰安だ、という意味で、それが同時に幻想にすぎないといっています。 しかしこの苦しみをなくすためには、社会を改造しなければならない、と。
 ・・・でもレーニンは、晩年、人類のすぐれた遺産を吸収せよ、といっていますね。
[浅野] マルクスもレーニンも、時代の背景、その歴史的条件を考えて学ばないといけない、ということでしょう。・・・≫

   憲法学者の宮沢俊義は『憲法講話』(1867.4.20.岩波新書)で≪形の上で政教分離をみとめている国家においても、その宗教に対する態度は、いろいろなニュアンスのちがいがある。第一は、国家が宗教一般に対して好意を持つ態度であり、第二は、これとは反対に、国家が宗教一般に対して敵意を持つ態度であり、第三は、国家が宗教に対して完全に無関係な、そして、宗教的にまったく中立的な態度である。 ・・・・・  ソ連憲法は、政教分離をはっきり定め、「宗教的礼拝の自由および反宗教的宣伝の自由」を保障している。宗教の自由の保障にとっては当然のことであるが、とくに「反宗教的宣伝の自由」という言葉を入れているところに、やや第二の態度をおもわせるものがある。≫と述べている。 ロシア正教が政治と結びついていたロシア革命以前のロシアの状況があったことから、「宗教的礼拝の自由および反宗教的宣伝の自由」と西欧の国と違って「反宗教的宣伝の自由」という部分が入っているということでしょうか。


   その東ローマ帝国のコンスタンティノープルのギリシア正教がロシアに伝わったロシア正教を日本に伝えたのがニコライだったそうで、内田昭蔵『ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)には、
≪  遠くビザンチンの福音をたずさえ、わが国にその灯をともしたニコライ伝道師、つまりイオアン・デミトリウィッチ・カサーツキン(1836-1912)はロシア、スモレンスクのベリヨスキ郡ベリヨーザ村に父親デミトリ・イワノウィッチ・カサーツキンと母クセニヤの次男として生まれた。・・・・・神学校スモレンスクのウヤジマカトウエルウジェフ神学校、プスコフのトロぺツ神学校を経てべリスキー神学校を卒業。 奨学金を得て、ペテルブルグ神学大学に学んだ。 ・・・・日本に興味を持ったのはロシア海軍、ゴロウニン(1776-1831)の書いた『日本幽囚記』(1816)を読んだ時からといわれている。 イオアンは自分の使命は神の正教精神をこの世に実現することであり、極東の日本にも伝道によって正教の火を燃やすことは可能と考えた。 折しも日本のロシア領事館付司祭派遣募集の報に接し、自ら異邦の民にキリスト教の福音を伝え教化するという堅い決心を申し出ていたのであった。イオアンが修道師になり勝利者を意味するニコライを名のったのは1860年6月23日であった。 ・・・・1861年6月、ニコライは函館に上陸、ただちに伝道活動を開始するが、最初に行ったことは正教要理、カテキズムと聖書、祈祷書の日本語訳であった。 ・・・ニコライの伝道は当時の日本はいまだに禁制下であったために多くの困難があったが、ようやくわが国で初めての信者が三人生まれた。 澤田琢磨(土佐)、酒井(川股)篤礼(陸前金成)、浦野大蔵(南部)であった。 その間、ニコライは新島襄にも会い彼に大きな影響を与えている。
  わが国に建てられたロシア正教会(後の日本ハリストス正教会)の聖堂建築は、北海道、東北、関東、関西とその数は多い。 ・・・・≫
と出ている。
  
   で、・・・・・ニコライ堂(日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂)の牧師というのか宣教師というのか神父というのか伝道師というのかはロシア人なのかな・・・・と思っていたのです。 そう思う人間はけっこういたようで、慶應で少人数のロシア語の授業で助教授に、「ロシア人じゃないのですか」ときいた学生がいて、先生が「違うよ」と言うと、「でも、あそこでロシア語講座とかやってますよね」と学生が言うと、「やってるけど、教えてるのはロシア人じゃないよ。俺の友だちの日本人だよ」と言われたのを覚えています。
   『建築巡礼19 ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて』(1991.丸善)の著者内井昭蔵氏の祖父はニコライ堂の神父だったそうで、
≪ 私の祖父、河村伊蔵は神田駿河台ニコライ堂の、正式には日本ハリストス正教会復活大聖堂の神父であった。・・・≫ と書かれている。  だから、その頃から、神父は日本人だったようです。

    ロシア革命前のロマノフ朝のロシア帝国においては、東ローマ帝国で皇帝教皇主義(セザロパピズム)として皇帝が教皇であったように皇帝が教皇であったわけですが、ロシア革命後、ソビエト連邦ではそれは否定されたわけですが、ペレストロイカからソ連崩壊を経て、ロシアのロシア正教て誰がやってるのだろう・・・・。 2000年にロシア連邦のイルクーツクに行った時、ある教会をのぞかせてもらったところ、礼拝中だったようで、大変敬虔な態度の人たちを見て、よくわからない者が邪魔してはよくないと思って、見学させてもらうにしても他の時間にした方がよいと思い退散したことがありましたが、宗教を国営でやることはないであろうし、国営・公営でやっていた事業がソ連崩壊とともに「分割民営化」みたいなことがされているようですが、ロシアの正教会て、誰が運営しているのだろう、皇帝が存在しない今現在においては誰が代表者になっているのでしょう。
   かつては、ロシア帝国の皇帝が宗教の権威者でもあったわけで、ロシア帝国ではそれだけに西欧諸国より宗教と政治が結びついた状態になっていたようですが、プロテスタントの教会では牧師は神でも神の代理人でもないのに対し、カトリックではローマ教皇は神の代弁者のような立場にあって、そのローマ教皇の影響下に日本のカトリック教会もあるのに対し、それが、ロシア正教ではさらに政治権力者である皇帝が教皇でもある状態だったということは、結果として、ロシア以外の国の信徒もロシア皇帝の権威に服することになるのか? そのロシア皇帝がロシア革命によって存在しなくなると、日本の正教会はローマ教皇がいないカトリックのような状態になるのか? 早稲田大学の建築学科を卒業して内井昭蔵建築設計事務所主宰だった内井昭蔵さんの『建築巡礼19 ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて』(1991.丸善)の文章を読むと、御茶ノ水のニコライ堂の神父は、内田昭蔵さんの祖父の河村伊蔵さんという日本人が勤めていたそうで、又、ニコライ堂の入口の説明書きによると、ロシア正教会・ブルガリア正教会・セルビア正教会・ギリシア正教会・ルーマニア正教会は姉妹の関係で、日本正教会はロシア正教会から生まれた娘のような存在であるけれども、≪各国に1組織を作るのが正教会の原則≫だそうで、≪1970年に日本正教会は母教会であるロシア正教会から自治正教会として自治権を認められました。≫ということらしく、カトリックにおけるローマ教皇のような存在の人がロシア正教会のモスクワにいるということではないらしい。

    『建築巡礼19 ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて』(1991.丸善)には、
≪ とりわけ子供にとっての楽しみは復活祭であった。 ・・・徹夜の祈祷となるため前の日の夜、家中で駿河台の祖父の住む司祭館長屋を訪れる。 その司祭館長屋はロシア人の設計によるれんが建てで石敷きの床の中廊下があり、出入口や窓はアーチになっていた。
   この建物は現在でもニコライ学院として使っている。 ・・・ ≫
と書かれている。 慶應のロシア語の授業の時に、一緒に授業を受けていた某君が言っていたのは、その「ニコライ学院」のことかと思うのですが、今も、ニコライ学院のロシア語講座は実施されているのだろうかと思ってインターネットで検索すると、《face book ニコライ学院 コミュニティ》https://www.facebook.com/pages/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%AD%A6%E9%99%A2/149162545183982 に、≪ロシア語専門学校 1982年頃開校〜1996年年9月閉校≫と出ており、《夢織人の街TOKYO散歩&思い出の場所パート1 ニコライ堂附属の「旧ニコライ学院」の建物 記事をクリップするクリップ追加 》http://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/25962421.html には≪ニコライ学院は、日本にロシア正教を伝えた宣教師ニコライ(1836〜1912)に由来するロシア語学校「ニコライ学院」(東京神田駿河台)でした。 ・・・・ 「ニコライ学院」は、気軽にロシア語を学べる学校として人気があり、多くの著名人も通ったそうです。そんな「ニコライ学院」もじょじょに生徒数が減って行き、1996年の9月に惜しまれながら休校してしまいました。・・・ ≫と出ていました。 残念です。

   ところで、「正教」とはどういう意味だろう・・・・と思いませんか。 ニコライ堂の入口に書かれていた表示、及び、ニコライ堂の入口でいただいたリーフレットによると、英語では“ orthodox church ” だそうで、「正」は「オーソドックス」を日本語に訳した際に「正しい教え」という意味で「正教」としたようです。

   インターネットで、ニコライ堂(日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂)のホームページhttp://nikolaido.jp/ を見ると、「拝観・見学・参祷のご案内」http://nikolaido.jp/seido-haikan.html#haikankengaku に、冬季は午後1時から3時まで見学させていただけるようなので、訪問見学させていただきました。
画像

画像

↑ 西側から見たもの。 敷地内に入らせていただいたので、こちらからも見ることができました。 ニコライ堂の写真を撮影して商業目的で使用することはやめてくださいと書かれた掲示が出ていましたが、このブログに掲載しても誰かお金をくれるわけでもないので、いいでしょう。

   ニコライ堂の設計者は、本郷の東大の東のあたりにある旧岩崎邸(戦後、下山事件や鹿地亘事件に係ったのではないかと言われるキャノン機関が入っていた「本郷ハウス」)とか、三田の慶應義塾大学三田キャンパスの北にある三井倶楽部とか、東京国立博物館の今の建物ではなく関東大震災で損壊してなくなった前の建物とかを設計したイギリス人のジョサイヤ=コンドルだと思ってきたのです・・が、現地での説明書きには≪設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。≫と書かれています。
   私が、ジョサイヤ=コンドルの設計と思ってきたのは、
≪ 明治政府は富国強兵、殖産興業を図り、一日も早く日本を欧米並みの近代国家とすることを目標とした。 そして、その技術を習得するために、多方面にわたって多数のお雇い外国人を受け入れた。 ・・・
   教育の分野でも工部大学校に造家(ぞうか)学科(いまの建築学科)が設置され、明治10(1877)年には、後に鹿鳴館、三菱1号館、ニコライ堂などの設計に携わったジョサイア・コンドルが招聘された。 コンドルの教えを受けた弟子には明治中期以降の日本の建築界の指導者となった多くの建築家がいる。・・・≫ と、
藤井正一・小原二郎監修『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)に出ていたので、それで、ニコライ堂はジョサイヤ=コンドルの設計と思ってきたのですが、あれ? ・・あれ?
   《ウィキペディア―ニコライ堂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82 を見ると、
≪ 聖ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ(Michael A. Shchurupov)が原設計を行った。お雇い外国人として来日し民間の建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現・清水建設)が担当した。シチュールポフの原設計とコンドルの実施設計の間にどれほどの改変が行われたのかについては未だ不明である。≫と出ています。 ミハイル=シチュールポフ と ジョサイヤ=コンドル による設計で、どこからどこまでがどちらによるものかははっきりしない、ということでしょうか。

   杉山英男『地震と木造住宅』(1996.7.10. 丸善)では、
≪ 工部大学校の造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)が第一回の卒業生を送り出したのは1879年であった。そのときの四人の卒業生の中には後年、東京帝国大学教授として建築界を背負って立つことになった辰野金吾(現存する東京駅や日本銀行本店の設計者)がいた。 そしてその後毎年1〜5人(・・・)ではあるが、1877年に来日したイギリス人の外人教師ジョサイヤ・コンドルの教えを受けた学士たちが社会に巣立っていった。・・・ ≫と出ているのですが、その明治初期の「お雇い外国人」の建築家で東大工学部建築学科の指導者のジョサイヤ=コンドルが設計した作品で今見ることができるものの代表格・・・・と思っていたのですが、実際は、ミハイル=ショーロポフとジョサイヤ=コンドルの合作の設計らしい。
   又、関東大震災で被害を受け、≪ 1927年から1929年にかけて、岡田信一郎の設計により構造の補強と修復が行われ、鐘楼を低く抑えたことなどにより外観が一部変更された。≫(《ウィキペディア―ニコライ堂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82 )そうで、現存するニコライ堂はミハイル=ショーロポフとジョサイヤ=コンドルの設計で建てられたものそのものではないようです。

   さて、JR「御茶ノ水」駅のすぐ南に、かつて、私が20代前半頃、1980年代初め、「ウィーン」という名曲喫茶がありました。 今もその建物はあるのですが、「名曲喫茶 ウィーン」はなくなり、今は「プロント」とか別の飲食店が何店か入って営業しています。 東大の本郷の正門前にあった「名曲喫茶 ワルキューレ」も何度か行ったけれども、ある時、行くとそこはゲームセンターになってしまっていて、今となってはそれがどのビルだったかもわからなくなってしまいました。 御茶ノ水の「ウィーン」の場合、特色のある建物ですからどのビルにあったかはわかります。 ↓
画像

(↑ 写真はクリックすると大きくなります。 クリックして見てください。)
↑ 右側まん中あたり、丸っこくてその上に尖塔みたいのが立っているビルが、もと、「ウィーン」があったビルです。

(↑ グーグルの地図では、今でも「ウィーンビル」と出ています。 「名曲喫茶 ウィーン」がなくなっても、ビルの名称は「ウィーンビル」として残っているのでしょうか。)
   「名曲喫茶 ウィーン」があった時、↑のビルを見て、「名曲喫茶 ウィーン」だからウィーン風の建物なのだろうな・・・・と、何気なしに思っていたのですが、ニコライ堂を見てその帰りに見ると、ウィーン風というよりもロシア風ではないか、という感じがしてきました。 しませんか?  なんだか、ロシアにあっても良さそうな外観デザインです。

   「名曲喫茶 ワルキューレ」も「名曲喫茶 ウィーン」もなくなった。 神田神保町の神田古書センタービルにあった「新世界レコード」も閉店してしまった。かつて、モスクワ放送の日本向け日本語放送に「音楽の時間」というのがあって、「ブラト=オクジャワの歌」が流れていたことがあった。どういう人なのかわからずに聴いていい歌だなと思い、(又、自称「ギャルにもてもての慶應ボーイ」とかいうブタ人間、及び、そういう男がいいらしいブタ女、及び「『ギャルにもてもての慶應ボーイ』とかいう俗物になりたいと思ってなれないブサイクなヤツ」などは、オクジャワの歌のすばらしさなんて絶対に理解しないだろうなと思ったのだが、)カセットテープに録音したものの、何度か聴いているうちにテープが機械にからまって切れてしまって順調に聴けなくなってしまった。又、モスクワ放送の日本語放送というのは、ウラジオストクから放送されていたらしく、厚木の米軍基地から放送されているFEN(Far East Network)よりもまだ音が悪い。日本ではオクジャワの歌のCDなんて手に入らないだろうと半ばあきらめていたのだが、神保町の新世界レコードに行った時、そこで発見してうれしかった・・が、その新世界レコードも閉店してしまった。〔オクジャワの歌は、たとえば、⇒《YouTube−「真夜中のトロリーバス」 ブラート・オクジャワ》https://www.youtube.com/watch?v=fsAsXOPfQO4 〕 〔ブラト=オクジャワは旧ソ連の詩人・音楽家であることから、慶應ボーイどもは「赤い国のアーティスト」とせっせと罵るだろうと予測されたが、オクジャワの父はグルジア人で、第2次世界大戦の時、独ソ戦のさなかにグルジアのソ連からの独立運動をおこない、「人民の敵」として銃殺され、母は投獄され、刑務所から出てきた母とは、スターリンを信じていたオクジャワは仲が悪くなり、さらに、オクジャワ自身がスターリンを批判したわけでも何でもないのに上演禁止にされるという事態となった、という詩人・音楽家で、ソ連体制をせっせと賞賛していた人間ではない・・のだが、「慶應ボーイ」にかかるとそれでも「ソ連の音楽家」にされてしまうだろう。そういう頭の堅いヤツのことを「思考が柔軟な慶應ボーイ」と言う。 〕
   新刊書の大型書店では見やすくて好きだった何度も利用してきた神保町の書泉グランデは今もあることはあるが、最近、行くと店舗の内容が変わってしまった。渋谷のライフセンターもなくなった。これは、かわりに、新宿のオアシスができたけれども。書泉グランデの南に冨山房という書店があって、1970年代後半は2階建ての書店だったが、規模は大きくないが見やすい書店だったのだが、そのうち、書店は1階だけになり、今では冨山房ビルはあるものの書店はなくなってしまった。 書店では、京王帝都電鉄の「駒場東大前」駅の南側(東大と逆側)にあったコマバ書店も見当たらず、たしか、あった場所はコンビニになっていた。
  なんだか、「男の隠れ家」がどんどんとなくなっていってしまう・・・と思っていたら、「ニコライ学院」もなくなってしまったらしい。 ロシア語の学校としては、マヤコフスキー学院も、今は機能していないらしい。〔⇒《マヤコフスキー学院》http://archive.is/BGPe0 〕 今は昔、ロシア語の勉強のつもりで、ソ連映画〔たとえば、ニコニコ動画『ジプシーは空に消える』 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8279646〕を見にせっせと通った都営三田線「千石」駅の近くにあった三百人劇場もなくなってしまった。 「深い所に駅があってエスカレーターが長いもんですから、下で水を入れてエスカレーターに乗って上まで行くとお茶になってる」という「新御茶ノ水」駅はいまもあるけれども・・・。
   インターネットで見ると、一度、食べに行ってみたいと長く思ってきた港区の飯倉にあったロシア料理店 ヴォルガ も閉店してしまったらしい。(「食べログ ヴォルガ」http://tabelog.com/tokyo/A1307/A130704/13001511/)  帝国ホテルの1階の「ラ ブラスリー」というレストランでは今も「シャリアピンステーキ」http://www.imperialhotel.co.jp/j/tokyo/restaurant/la_brasserie/point.html )はメニューにあるようだが。一度、食べてみたいと高校生の頃から思ってきたが、機会とお金がないうちに年月が経ち、高脂血症になって医者から「ステーキなんてとんでもない」と言われるはめになってしまった。それでも、1回、くらいはいいだろとか思うものの、「ヴォルガの舟唄」(⇒《YouTube−Эй, ухнем! Шаляпин Фёдор Иванович.wmv 》https://www.youtube.com/watch?v=lBLlJb9tOJY&spfreload=10 )とかロシアの人民大衆の歌を得意とした歌手が作らせた料理にしては、けっこう高い。

   そういえば、御茶ノ水クリスチャン文書センターのすぐ南のカドに、かつて、明治大学の生協があって、一度、入ってみたことがあるのだが、生協は生協でも明治の生協は慶應の生協なんかと違って、「なんか、すごい!」て感じがした。どうすごいかといってもうまく説明できないのだが、就職した会社に明治大学卒の人がいてその話をすると、「そりぁ、明治の生協はブントがやってるもの」と言うので、なるほど、生協は生協でも西武セゾングループがやってる・・・わけでもないかもしれないがそんな感じの慶應の生協とはブントがやってる明治の生協は違うんだな、と思ったものだが、それもなくなり、富士銀行の何とか支店に変わったが今やそれもなくなって別のものになっている。〔「ブント」てどういう意味なのだろうと思っていたのですが、ドイツ語で「同盟」という意味らしい。
Bund(男性名詞)同志の集まり、盟約、連盟、同盟・・・ 
Bundenis(中性名詞)同盟、盟約・・・ (ロベルト=シンチンゲル・山本明・南原実共編『現代独和辞典』三修社)〕
   そのさらに南の方に明治大学のキャンパスがあって、横を通った時に、紐を体の両側にまわしヘルメットかぶって笛を「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ」と吹きながら電車ごっこみたいなことをやっているお兄さんが何人かいて、もしかして、あれはデモの練習なのかもしれないが、あの電車ごっこにいったい何の意味があるのだろう・・と思ったけれども、別にそれで誰かが迷惑しているわけでもないのだから、やりたい人がやっても別にいいよな、とも思い、そんなことやる人間なんてどこにもいない右翼ばっかりで原理研と浄霊だらけで女たらしの強制猥褻サークルが隆盛の慶應よりはいいかもしれないとも思ったけれども、しかし、やっぱり、電車ごっこに何の意味があるのかとも思ったが、そのキャンパスも、今や高層ビルになって、かつて、そのお兄さんたちが「電車ごっこ」をやっていた「庭」の部分はなくなり、東大の本郷などと同様の「大学のキャンパス」という感じだったのがオフィスビルみたいになってしまった。
   今は昔、御茶ノ水の駅の南側の道にクルマを停めて音楽を流している「どっちかというと左翼っぽい雰囲気」のおじさんがいて、あの歌は何の歌だろうと思ったことがあったのだが、今から考えると、「卑怯者、去らば去れ」という歌詞の「赤旗の歌」(《YouTube―「赤旗の歌」》https://www.youtube.com/watch?v=jMf-qLljzNg )だったようだ。中学校の音楽の教科書にも掲載されているドイツ民謡の「モミの木」の歌(《YouTube−男声合唱曲 「もみの木(O Tannenbaum)」(ドイツ民謡)》 https://www.youtube.com/watch?v=f5GQnaT5fEA )となんか節が似てると思ったのだが、《ウィキペディア―赤旗の歌》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%97%97%E3%81%AE%E6%AD%8C によると、≪1889年12月、アイルランド人のジム・コンネル(英語版)がロンドンにおける港湾ストライキの折に作詞した。現在ではしばしばドイツ民謡『もみの木』(O Tannenbaum)の旋律に乗せて歌われるが、コンネル自身はロバート・バーンズが作曲した『The White Cockade』に乗せて歌われる事を想定していた≫そうで、「モミの木」の歌と似ているのではなく、「モミの木」の歌の節で歌われているらしい。(インターネットで見ると、「替え歌」もけっこうあるらしい。たとえば⇒《山の歌と軍歌と革命歌》http://blog.goo.ne.jp/kunihiko_ouchi/e/134fe862a45adc94475e2b3e83544c1e ) 今では「赤旗の歌」を流すそんなおじさんを見かけることもなくなった。
〔  今は昔、たしか、神保町の交差点だったと思うのですが、右翼団体の真っ黒けの気持ちの悪い街宣車が右折しようとした時、道路傍に泊まっていたパトカーがマイクで「そこ、右折できません。右折できませんよ、逮捕しますよ」と叫んだのを見ました。 右翼団体のクルマに「そこ、右折できませんよ」とは、なんとも、「言いえて妙」というのかの発言でした。安倍晋三のクルマにも言ってやるといいかもしれませんね。「そこ右折できませんよ!」と。 最近、「右翼団体」の真っ黒の街宣車というのを見かけることがかつてに比べて少なくなったような気がするのだが、要するに、その分だけ、橋下徹・中原徹のダブル徹などのようにもともとははずれものの存在だった右翼が表に出てきたということなのでしょう。インターネット上の「ネトウヨ」になった部分もあるかもしれませんね。〕
   そういえば、神田神保町の交差点と水道橋駅の間のあたりに、研数学館という予備校があった。これは特別に進学成績の優れた予備校でもなかったが、ある意味、知る人ぞ知る予備校で、前を通った時、あの研数学館だ!と感動を覚えたことがあった。どう知られていたかというと、『親切な物理』という物理がわからんという時に読むとますますわからんようになってしまう本があったのだが(わからん時に読んでわかるようになる本ではなく、ある程度以上わかった時に挑戦してさらに上の力をつけるというタイプの本なのだと思います)、その裏表紙に研数学館の広告なのかが出ていたのだ。だから、どれだけやったかはともかくお守りみたいに持ってる人はけっこういた『親切な物理』という本で有名な研数学館だったが、今は建物はそのままあるが研数学館はなくなり、日大の何学部だか忘れたが日大の校舎になっている。 1980年代後半に、水道橋駅の北のあたりに、「狐狸庵」という名前の喫茶店があるのを見かけたのだが、もしかして、遠藤周作さんがいるのだろうかとか思い、一度、入ってみたいと思いながら機会がなく、しばらくしてその付近に行ってみると、見つからなくなってしまったということもあった。
  御茶ノ水駅のクリスチャン文書センターの近くに「キムラヤ」というディスカウントショップがあって、そこで買ったラジカセを川崎市幸区の自宅に持ち帰って使おうとすると雑音が相当するので、キムラヤに直してくれと言うと宅急便で送ってくれというので送ったが、キムラヤの店員が雑音なんかしないと電話で言ってきたので、そんなはずはない、何度も確認した上で言っているのだからと御茶ノ水まで出かけて行ったところ、キムラヤの店員が出てきて、「こらあ。おかしなケチつけるんじゃねえ。この野郎!」と脅された。この店、怖いなと思ったが、御茶ノ水のキムラヤの店でコンセントをつなぐと雑音はしないが、川崎市幸区の自宅に持ち帰るとやっぱり小さくない雑音はする。不良品を売りつけられて往復の電車賃や宅急便代を出さされたあげくにチンピラみたいな店員に脅されて、それまで、御茶ノ水のキムラヤでも神田神保町の交差点にあったキムラヤでも何度も買ってきたのにろくな店じゃねえなと思ったのだが、メーカーの修理センターが川崎市幸区の自宅からバス停3つ分か4つ分くらいの場所にあったので持っていったところ、そこでコンセントをつなぐとやはり小さくない雑音がした。それで、直してくれというと、「キムラヤで取り換えるべきものなのでキムラヤに言ってください」と言うので、「キムラヤに言うと、『こらあ。おかしなケチつけるんじゃねえ。この野郎!』と言って脅されたんです。ずいぶんと怖い店で、もう一度言っても同じようにすごまれると思うので、こちらから言っていただけませんか」と言うと、「わかりました」と言って電話をしてくれて、それで、キムラヤも交換してくれたのだが、そのキムラヤも今はない。これはなくなって残念ということはない。むしろ、なくなって良かったと思う。自分の所が不良品を売ってしまったにもかかわらず、不良品を買わされた客に向かって、それも、それまでずいぶんとその店でいろいろと買ってきた客に向かって、「こらあ。おかしなケチつけるんじゃねえ。この野郎!」とすごんだりするような怖い店はなくなった方が世の為人の為である。

   ニコライ堂は、「ニコライ聖堂」というものだと思っていたのですが、現地での説明書きにもいただいてきたリーフレットにも、「東京復活大聖堂」の通称は「ニコライ聖堂」ではなく「ニコライ堂」と出ています。
   入口で300円納めることで内部の見学をさせていただくことができ、内部の写真撮影は禁止ですが、内部の写真が欲しければ、入口で内部の写真もある絵葉書が400円で販売されています。

   外観はロシア的なところがありますが、ロシア正教の教会は、イルクーツクで立ち寄らせていただいた教会にしても装飾豊かで、キリスト教の場合、「偶像崇拝の禁止」という教えがあるわけですが、実際にはキリストやマリア、12弟子の像が描かれたり刻まれたりしており、特にロシア正教会ではプロテスタントの教会などよりきらびやかなものが作られていることが多いように思ったのですが、ニコライ堂の場合は、内部に入ってみると、それほど派手ではありません。 《ウィキペディア‐ニコライ堂》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82 を見ると、≪日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる≫と出ているとともに、≪24万円の建設費用の大部分はロシアの正教徒たちの献金によって賄われたといわれるが、予算の制限からビザンティン様式の特徴である内部空間の豊かな装飾はみられない。≫とも出ています。

   JR「御茶ノ水」駅の東で神田川を渡る聖橋(ひじりばし)↓は、ニコライ堂と湯島聖堂の2つの聖堂を結ぶということで、「聖橋」と名付けられたそうです。
画像



次回http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_3.html 、聖橋を通って、湯島聖堂 に行きます。
   (2015.12.06.)

≪ ・・代助は面白そうに、二、三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした。 御祭が夜(よ)の十二時を相図(あいず)に、世の中の寝静まる頃を見計らって始まる。 参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰ってくると、何時(いつ)の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いている。 法衣(ころも)を着た坊主が行列して向こうを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。――平岡は頬杖を突いて、眼鏡の奥の二重瞼を赤くしながら聞いていた。・・・・≫
(夏目漱石『それから』 岩波文庫)
≪ 駿河台にある日本ハリストス正教会(ギリシア正教会日本支部)の教会堂。 ロシア人宣教師ニコライによって明治24年(1891年)に創建された。 当時の東京新名所の一つ。≫(夏目漱石『それから』1989.11.16. 岩波文庫 の 吉田凞生の「注」 )


☆ ニコライ堂と湯島聖堂と聖橋
1.ニコライ堂 〔今回〕
2.湯島聖堂(上)、聖橋 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_3.html
3.湯島聖堂(中) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_5.html
4.湯島聖堂(下) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_6.html

☆ 日本の教会建築シリーズ
東京都
日本キリスト教団 本郷中央教会[東京都文京区](ヴォーゲル)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201412/article_1.html
日本ハリストス正教会 東京復活大聖堂(ニコライ堂)(ミハイル=シチュールポフ・ジョサイヤ=コンドル) 〔今回〕

神奈川県
慶應義塾大学 YMCAチャペル[横浜市港北区](ヴォーリズ)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201206/article_3.html
日本キリスト教団 清水が丘教会[横浜市南区]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201309/article_1.html

大阪府
日本キリスト教団 南大阪教会[阿倍野区](村野藤吾)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201206/article_2.html
カトリック大阪梅田教会[北区]《1》 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201405/article_1.html
同 《2》
高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)[高槻市] http://tetsukenrumba.at.webry.info/201510/article_2.html
日本キリスト教会高槻教会[高槻市]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201510/article_4.html

兵庫県
神戸文学館(旧・関学 ブランチメモリアルチャペル)[神戸市灘区](ウィグノ―ル)http://tetsukenrumba.at.webry.info/201311/article_1.html 
日本基督改革派神港教会・カトリック六甲教会[神戸市灘区]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201312/article_1.html
関西学院教会 と 関学 ランバス記念礼拝堂(一粒社ヴォーリズ建築事務所)、関学神学部棟(ヴォーリズ) 他[西宮市]http://tetsukenrumba.at.webry.info/201405/article_2.html
カトリック夙川教会[西宮市] http://tetsukenrumba.at.webry.info/201406/article_1.html
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
ニコライ堂(日本ハリストス正教会東京復活大聖堂)訪問、御茶の水界隈今昔―ニコライ堂、湯島聖堂と聖橋1 哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる