哲建ルンバ

アクセスカウンタ

zoom RSS 「文学的素養がない人間」「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下)―YMCA予備校の間違い≪6≫ 

<<   作成日時 : 2015/11/22 21:27   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

[第228回]私のドラゴン桜(6)
【6】-2 
1. 彼は、YMCA予備校の模擬試験は絶対で、YMCA予備校の試験で京大の文学部に合格確実と判定を出した人間が落ちたのは、YMCA予備校が悪いのではなく、落ちた人間が悪い、ということにしたいらしかった。どこが悪いということにするかという問題で、模擬試験の成績が悪かったとは言えないので、それで「文学的素養がないから落ちたんだ」と罵ることにしたようです。 しかし、それなら、京大の試験には「文学的素養がない」から落ちる人が、YMCAの試験には「文学的素養がない」にもかかわらず良い成績をとれたのか、ということになりますし、京大の試験は「文学的素養がない」人間は落ちるのにYMCAの試験は「文学的素養がない」人間でも良い成績がとれるということなら、YMCAの試験は京大の試験と相関関係はそれほど強くない、ということになってしまいます。 ですから、「文学的素養がない人間は模擬試験で良い成績をとることができても、京大の試験には通らないんだ」という説は、すでに論理が破綻しているのです。
   それなら、YMCA予備校の模擬試験は京大の入試には役立たないと認めなければならないのか、というと、藤井はそう考えるから、なんとか、YMCA予備校の模擬試験が悪いのではなく「文学的素養がない」ヤツが悪いんだ、ということにしたいようでしたが、そういうものではないはずです。 もともと、模擬試験というものは、どこの模擬試験がということではなく、どこの模擬試験にしても、どんなに相関性の強い模擬試験であっても、模擬試験で良い成績をとればその大学学部には必ず通るとか、模擬試験の成績が悪ければ必ず落ちるとか、そこまで強い相関性があるものではありません。 高校の3年の同級生で、3年の終わりころの河合塾の東大オープンで「A」判定であるだけでなく、成績優秀者として万年筆だったかをもらったといって、それを学校に持ってきて見せびらかしていた男がいましたが、そいつ、落ちました。 アホやあ〜あ! と考えるべきか、東大オープンで万年筆をもらうくらいの人間でも落ちるくらい東大は難関なのだ・・と考えるべきなのか・・。 どう考えてもかまいませんが、もともと、模擬試験というのは、その程度のものです。 あえて、その男について言うならば、模擬試験で成績優秀者として万年筆をもらったとしても、模擬試験は模擬試験であって、本番の試験ではないのであり、本番の試験の合格発表を見て、さらに入学手続きをしてこそ合格であり、模擬試験で良い成績をとったとしても、それでもらった万年筆だかを高校にもってきて見せびらかすというその点において、「勝負弱さ」があると言えます。 今の私なら、たとえ、模擬試験でどんなに良い成績をとっても、そんなことしません。 「良い成績をとったと自慢しやがって嫌なやつだ」とかそういう理由でではありません。模擬試験でどんなに良い成績をとったって、本番の試験が終わってない以上、まだ何があるかわからないじゃないですか。 それを、もう通ったような気持になっているというのは、「勝負弱さ」がそこに出ているのです。 で、河合塾の東大オープンは、東大の試験と相関関係がないのかというと、そうではありません。 河合塾の東大オープンは、駿台の東大模試、代ゼミの東大模試とともに、東大の試験には相関関係は強い試験だったと思います・・・・が、「A」判定の人間は本番の試験で全員が通って、「D」判定の人間は本番の試験では全員が落ちたかというと、違います。 河合塾はそのあたりは良心的で、昨年、この試験を受けた人で「A」判定の人は何人、「B」判定は何人、「C」は何人、「D」は何人でした。 「A」判定の人で実際に受けた人は何人で、そのうち合格した人は何人、落ちた人は何人、それをパーセントで表示すると合格した人は何パーセントでした。 「B」判定の人は何人で、そのうち、実際に受けた人は何人で、合格した人は何人、不合格だった人は何人、それをパーセント表示すると何パーセントになりました。 「C」判定の人は・・・、「D]判定の人では・・・・、という表示をしていたのです。 「A」判定の人が全員が合格したのではありません。「A」判定でも落ちた人は1人だけとかではなく何人かあります。 「D」判定の人は全員が不合格になったのではありません。「D」判定でも通った人はあります。河合塾では東大オープンの試験で「A」判定だったが本番の東大の試験では落ちてしまったという人に対して、YMCAのように「文学的素養がないから落ちたんだ」だの「人間性が悪いから落ちたんだ。人間性の悪いやつは落ちるんだ」だのと悪態つくのではなく、きっちりと数字で示し、そして、「A」なら必ず通るというものでもなく、「D」なら必ず落ちるというものでもないが、「A」判定の人の方が通った人は多く、「D」の人の方が落ちた人は多いということを事実を示して表していたのです。 私自身も、実は、模擬試験で「A」判定をもらった大学で落ちたところがあるのです。 そうすると、模擬試験で「A」の判定をもらっておきながら落ちるというのは「根性がないからだ」とか「精神面が劣る」のではないかとか言い出す人も出てきますが、そういうものでもありません。 まず、もともと、模擬試験というものは、どんなに相関性の高い模擬試験でも、模擬試験で良い成績なら必ず通るとか、模擬試験で良い成績でなければ必ず落ちるとか、そこまでの相関性があるものではないのです。 YMCAの藤井は、まず、模擬試験というものの読み方、とらえ方を根本的に間違っているのです。 その模擬試験で「A」判定で合格した人は何人、落ちた人は何人、パーセント表示をすると何パーセント、「D」判定で通った人は何人、落ちた人は何人、パーセント表示をすると何パーセントと事実に基づき表示する予備校と、「YMCAの試験は絶対でYMCAの試験で良い成績の者は京大の試験にも絶対に通るんだ。落ちたヤツは文学的素養がなくて人間性が悪いから落ちたんだ」だのと悪態ついて何度も何度も言いまくる予備校とどちらが良心的かというと、前者の方だと思います。 河合塾や駿台・代ゼミが大阪に進出してきた時、後者の方の予備校はあっという間に淘汰されました。当然ですね・・・。 まだ、1校だけ残っているようですが、さっさとつぶれてしまえばいいのに。

2. 「試験で良い成績がとれたとしても、文学的素養がない人間は、もっと評価の低い大学ならともかく、京大・東大あたりの文学部には行くべきではないのじゃないか」とか、「リーガルマインドがあって、法律家に向いている人間でなければ、法学部に行くべきではないのじゃないか」とか、そういったことは、実は、私自身が高校3年の時に考えました。 試験の通るか通らないかの話ではなく、行ってからやっていけるか、もし、その学部に向いていない人間なら、日本のトップクラスの大学の学部に行って良いのかといったことも考えました。
   これは、まったく考えないよりは、少しは考えた方がいいかもしれません。 そもそも、東大に行って工学部建築学科を卒業しておきながら芸能人になっている菊川怜て、あの女、なに? て思いませんか。そもそも、あれは「女優」でもない「歌手」でもなし「アナウンサー」でもなし、どういう職種なの? というと、「東大での女」という職種らしいのですが、けったいな職種もあったもんだ・・・と思いませんか。 私の母のいとこで、年齢としては私の年の離れた兄くらいの年齢の方で、天王寺高校から1年浪人して東大に行かれた方があるのですが(今はすでに定年退職されていますが)、その方が天王寺高校を卒業された年、東大に落ちたと聞いた時、小学校の先生をしていたお父さんが、かわいそうだと言って頭から布団をかぶって泣かれたと聞きました。 「勉強しない者が落ちるのはしかたがない。 あれだけ一生懸命勉強した者が落ちるのはかわいそうだ」と言って。 本人はそうも思わなかったそうです。 私もそう思います。 だって、それだけの所を受けているんだもの。 ボクシングの世界タイトルに挑戦した選手がチャンピオンに負けたとしても、かわいそうだと思うかというと思わないでしょ。 だって、それだけの相手に挑戦してるんだから。 落ちたくなければ易しい所を受けておけばいいんだよ。 でも、そこに行きたかったんだから、しかたがないじゃないか。 「関学いったらどうだ、カンガクぅ〜う。関学行ったら女の子にもてるぞお〜お」と言われて、「じゃ、行こうかな♪」と思うヤツは行けばいいじゃないか。「ふざけんな! 誰が行くか」と思うから東大うけたり京大うけたりして通ったり落ちたりするのでしょ。〔⇒《YouTube―K.O(Knock out) 》https://www.youtube.com/watch?v=6tg7iWbmnoE 〕
≪ 「人より二倍勉強するんだな。 二倍勉強すれば二倍だけできるようになる。 朝起きても学校へ行くまで勉強。 学校から帰っても、又勉強。――そうすりぁあ、どこへだって入れる」
大学生は殆ど独り言を言っているような調子で喋っていた。
「君、勉強するってことは、なかなか大変だよ。 遊びたい気持に勝たなければ駄目、克巳って言葉知ってる?」
「知っています」
「自分に克って机に向かうんだ。 入学試験ばかりではない。人間一生そうでなければいけない」 ・・・≫
(井上 靖『あすなろ物語』新潮文庫 「深い深い雪の中で」 )
(↑のように思って小学校の1年からやってきた人間が、「関学行ったら女の子にもてるぞお〜お。 カンガク行けよ、カンガクぅ〜う」とか言われても、アホか! ふざけんな! と普通は思うわな・・・・。 もっとも、↑のような「精進流勉強法」「修行僧型勉強法」と「ものぐさ勉強術」では、「ものぐさ流」の方が成果が出る場合もけっこうあるんだけれども。 早稲田なんとかセミナーの司法試験対策読本のような本にも、(旧型)司法試験に合格した人に対しての「司法試験に合格しないタイプとは?」という質問に、「あまりにもストイックな人」というのがあったし。 )
   で、手ごわい相手と勝負したら、負ける可能性だってあるじゃないですか。 だから、落ちた人間当人は「かわいそうだ」とかは思わないんです。 落ちた自分が悪いんだから。 プロ野球のCSで打たれて扇風機ぶっこわしたピッチャーがいましたが、扇風機が悪いんじゃないでしょ。 自分が打たれたんでしょ。 あれだけ練習したのにといっても、あれだけ努力したのにといっても、それだけ努力した人間でも通るとは限らない所を受けて入ろうとしてるんだから、しかたがない・・・と10代の後半から20代の時は思っていました。
   けれども、自分の年齢が高校生や大学受験生とそう変わらない年齢ではなく、高校生や大学受験生の親くらいの年齢になってみると、感じ方も変わりました。 東大に行っても、東大の建築学科に行ってもそこで勉強する内容と関係のない仕事につきたいのなら、しょせん、くだらない「東大での女」とかいうわけのわからん職業につきたいのなら、東大に行かないでくれたら、たとえ、「一流大学」と世間で言われる大学を卒業したということにしたいのであっても、せめて、マスプロで入学辞退者が出ることをあらかじめ想定して多めに合格させる早稲田あたりにしておいてくれたら・・、そうすれば、1点差で落ちた人間がひとり合格できて、本当にそこで学ぶ内容を卒業後に行かしたい人間がそこに行くことができたのに。 「東大での女」だのというちっぽけな職業につきたいというようなヤツが東大に行かなくったっていいじゃないか。 1点差で落ちた人間だけじゃない、10点差で落ちた人間だって20点差で落ちた人間だって、東大に行こうとした人間なんて、相当に努力したはずなんだ。 そこで学ぶ内容を卒業後に生かそうという気持ちがないなら、受けないでくれたら・・・と、「親の気持ち」でなくても、親であっても悪くない年齢になると思いますね。 だから、東大出た芸能人とか運動選手とかを賞賛する人がいますが、東大出て芸能人とか運動選手になっていけないという法律まであるわけではないので、絶対になってはいけないとまでいうことはありませんが、そういうものを賞賛したいとは私は思いません。 むしろ、「税金で勉強させてもらったのに、それを生かす仕事につかず、申し訳ありません」の一言くらい言ってもらいたいくらいだし、だいたい、菊川怜て、死ぬまで「東大での女」やってるのか? とすると、東大でたって、もしかして、あんまり賢くないのとちゃうかあ〜あ・・・・・・とか思ったり・・・・。

   ひとに対してどうというのではなく、自分自身にとって、試験で合格できる成績をとれても、そこに向いていないなら行かない方がいいのではないか、という問題はあると思います。 北野高校の2年の時の担任のS(女性。当時20代。 神戸大文学部卒らしい)が、私に「あなたは文系よ」と言って、私が最も嫌がっていた経済学部に行かそうとしたのですが、なぜ、「文系」かというと、理科の成績と社会の成績を比較すると社会の成績の方が良いから「文系」だと言うのでした。 それは乱暴すぎる判断です。 そもそも、大学入試でも京大・阪大とか東大の試験を絶対のものとして考えない方がいいと思います。 たとえば、1970年代後半から80年代なかばまでの慶應大の試験では、経済学部の試験は数学と英語だけで社会科は試験になかったのですから。 慶應の経済学部は、経済学部にとって必要なのは英語と数学で社会科は重要性は低いという判断だったわけです。 その判断も絶対ではありませんし、京大がほぼ全科目を試験で実施するというのは全般的な学力のある学生に来てほしいという考えで、慶應の経済学部の数学と英語だけというのは数学と英語が重要で社会科は重要性は低いという考え方とでは、どちらが正しいと決まっているものでもないと思います・・・・が、経済学部で重要なのは英語と数学で社会科はそれほど重要でないと判断する大学だってあるのに、理科と社会科の成績を比較すると社会科の方がいいから「あなたは『文系』(経済学部)よ」と決めつけるというのは乱暴すぎるし勝手すぎるし、そもそも、本人が、そこだけは嫌だと言っているのに本人が嫌だと言っても、親がそこに行かすんだと信念もってるからといって親の方に加担しておのれの評価をあげようという女というのは、良い教師と言えるかどうかというと、今、考えると、どう考えても良いとは思いませんね。
   むしろ、哲学科と数学科は体質としてけっこう似ています。 近代経済学は数学を使うと言われますが、高校までの数学と大学の数学は違いますし、それより、経済学・経済学部は現実の社会とのかかわりが深い学問・学部で現実の社会を無視して考えることはできず、その時の政治状況の影響を受けずにおれない分野であるのに対し、数学は政治状況の影響をもっとも受けにくい学問です。 社会主義の国でも資本主義の国でも数学は数学ですが、経済学はそうはいきません。 慶應の経済学部なんか行っていた学生を見ると、「自由を尊重したい人間だから社会主義は認められない」とかなんとかぬかすヤツがけっこういましたが、資本制経済と社会主義経済ではどちらが個人の自由を確保できる社会か、といったことを真剣に考えて言っているのではなく、そう言っておいた方が就職の際ににらまれないだろうというあさましい考えでしかない学問的でないアカデミックでない人間であるだけです。 だから、純粋に学問研究をやりたいというアカデミックな体質の人間は、数学ができようが社会科の成績が良かろうが、慶應の経済などはあまり向いてないのではないかとも思いました。哲学科は経済学部と法学部なら法学部とは思考がまだしも近いが経済学部とは体質が違うし、哲学科は文学部に所属していても、だからといって「文科」の経済学部よりも、むしろ、理学部などの方が体質が似ているように思います。そういったことも、多少は考えた方がいいかとは思います。
   しかし、高校を卒業する時に落ちて、高校3年の時、そういうことを私は考えすぎたと思ったのです。あくまで「多少は」考えてよいが、考えても結論が出なければ、「そう難しく考えなくてもいい」のではないかと思ったのです。 で、「文学的素養がない」みたいなヤツでも文学部に合格してますしね。京大の。 京大合格者数1位の高校に行っていたのですから、知っている人間で京大の文学部に行った人間だっているわけです。 そういう人間に、「おまえ、文学部に向いてないぞお。おまえ、文学的素養がないから文学部はやめた方がいいぞお〜お」と言ったとしても、「やかましい!」と言われるだけだったと思います。 実際、大きなお世話ですよね。
   そもそも、「文学的素養」て、何ですか? そして、英文科・仏文科・独文科・国文科といった「文学」の学科だけが文学部でもないのです。 文学と相当離れた学科もあるのです。英文科・仏文科・独文科に進学しても卒業後、英文学者・仏文学者・独文学者になろうという人ばかりではなく、「文学」よりも英語・フランス語・ドイツ語の方を主に学びたいもので、語学を学んで卒業後に商社などに就職する人もあります。 京大の文学部の入学試験は、数学・英語・国語・理科・社会と5科目、しかも、理科は2科目、社会も2科目の試験だったのです。共通一次試験より前の方がわかりやすいと思うので、そちらの方で説明すると、法・経済・文・教育学部は、数学・英語・国語・社会2科目で各200点、理科2科目で100点、計900点満点で、総合点主義で全科目の合計点で合否が決められたのです。 北野高校から東大数学科に進学して京大の数学科の教授だった森毅氏が『元気のでる教育の話』(中公新書)でだったと思いますが、書かれていた話によると、文学部で数学ができてもしかたがないじゃないかと言う人がいるが、文学部なんてのは多少変わったおもろいヤツの方が向いている学部だから文学部のくせに数学ができるというようなヤツはむしろ合格させるべきだという説もある、ということで、京大は文学部だって数学や理科ができれば合格しやすかったのです。 かつ、総合点主義で1科目0点の科目があっても、他の科目の成績が良ければ合格できるという制度で、そうはいっても、京大くらいを受ける受験生は全体のレベルが低くないのだから、さすがに0点の科目があったら他の科目で挽回するといっても難しいのではないか・・・というと、森毅氏の文章によると、実は、過去に1科目0点で京大に合格した者がいるというのです。 だから、「文学的素養がないヤツ」が国語が0点であったとしても、他の科目の成績が良ければ、京大の文学部は合格できた、ということなのです。
   「京大の文学部は文学的素養がない者は落ちる」なんて、嘘です。 YMCA予備校の出まかせ、もしくは、YMCA予備校の「主事」の藤井という男の出まかせ、のどちらかです。 予備校として言っているのではなかったと言い訳しても、使用者責任があります。 予備校の職員が職員の立場で発言したことに予備校は責任がないと主張することはできません。 まあ、よくも、いいかげんなことを言うとあきれます。 そもそも、「文学的素養」て何ですか?  「おまえ、文学的素養がないから文学部はやめた方がいいぞお〜お」、「なにお。おまえこそ文学的素養がないのと違うのか」とか言いあいしても、しかたがないでしょ。
   「全国の大学の入学試験の問題を均等に集めたような国語の問題集はあまり役立たない」というのなら、可能性はないとは言えません。 もとより、「問題集」とか「参考書」と名付けられたものが役立つとは決まっていません。 京大に行こうとしたなら、過去の京大の問題にあたるのは役立つとしても、関係のない大学の試験問題をやるよりも、考えようによっては、過去の京大の試験に出た小説家・評論家の作品をあたって、それをもとに自分で京大型の問題を作って自分で解答を考えてみるといったことをした方が効果があるかもしれません・・が、そういうことを言うのなら、ひとつの説として考えられますが、「文学的素養がない人間は落ちる」だのなんだのという悪口雑言は聞いていて気分を害するだけで、意味はありません。

3. 「人間性が悪い人間は大学入試には落ちる」かというと、これも「文学的素養」とかいうやつと一緒ですね。
  1979年度から共通一次試験の制度ができて、1978年度まで国立大学が一期校・二期校に分かれていたのが、一期校・二期校の制度がなくなり、地方国立大学で、面接と論文・小論文が試験にある大学が出てきました。 面接で合否が決まるのは私立金権裏口医大だと思っていたら、国立大学でも面接をするというので、いったい、何だろうと思ったものです。 「大学の入試というものは、成績の良いものから順番に合格というもの」と思っていたし、北野高校の先生でそう言われた先生があったのです・・・が、それは京大などの場合のことだったようです。 京大はその合否の決め方で問題はなかったようです。 それに対し、地方国立大学などはそうもいかない事情もあったようです。 一期校・二期校の制度があった時代に、京大だか阪大だかの工学部を落ちて静岡大学の工学部に行って途中でやめて受けなおしたという人に聞いた話ですが、二期校であった時代の静岡大学の農学部は、京大・阪大・名古屋大などの工学部を受けて落ちたという人間が大量に入学していたそうです。 そういう人間は、浪人しても落ちたのだから静岡大でもしかたがないか、という気持ちで、いったん入学するそうですが、そういう人の過半数以上は、半年以内に、「こんな大学、行ってられるか」という気持ちになって、二浪しようが三浪しようが関係ない! と下宿を引き払って、京大なり阪大なりに再挑戦するそうです。 気持ちはわかりますが、静岡大学の側としては、せっかく入学させてあげたのに、全学年で1人や2人ならそういう人がいてもしかたがないとしても、半年以内に過半数がいなくなってしまうというようなことでは困るわけです。 それで、共通一次試験以降、入試に面接とか論文とか入れたのは、実際に静岡大学に入学してやっていきたいという人を合格させたいということだったのではないかと思います。 地方国立大学にはそういう大学がけっこうあったのではないでしょうか。 京大型の「試験というものは、合格最低点より高い点数をとれば合格、合格最低点より低い点数しかとれなければ不合格。 それだけ」という考え方に慣れた人間としては、なんだか、準裏口入学みたいな印象を受けてしまいますが、そこに本当に行きたい人間に来てほしいという地方国立大学の立場もわかりますよね。 ですから、おそらく、地方国立大学の面接とか論文とかいうのは、実際にその大学その学部でやっていきたい人かどうかを主として見るものではないかと思います。 ここで「人間性」とは、そこで実際にやっていきたいという人が「人間性がよい」ということで、別にナザレのイエスとかゴータマシッダルタでなくても良いのです。 予備校の職員は受験生にそのあたりを教えてあげるべきだと思うのですが、YMCA予備校の人間は知らないのでしょうね。
   私立金権医大の場合は、面接は親と一緒に受けるそうで、面接で何をきかれるかというと、寄付金をいくら払うからしいですね。 この場合、はっきりしています。カネを出す人間が「人間性がいい」ということです。
   今はなくなった(旧型)司法試験では、短答式⇒論述式 の試験に合格した後、「口述式」試験という「面接」の試験があって、法律の専門の試験官と会って、試験官から法律の問題について口述で問いかけられ、その場で口頭で答えるという試験がありました。 そこでは「人間性」を見ているわけではなく、口頭で問われて口頭で答えることができるかという試験でしたが、エール出版社から出ていた『司法試験合格作戦』で合格者の1人が、口述試験を受ける時の心得として、「あせらず、黙らず、けんかせず」と唱えたと述べていたのを読みました。 相手は法律のその分野の専門家、大家と言われる人なので、その大家にその分野で劣ってもかまわないが、負けるもんかあ〜あ・・とそこで言い争って言い負かしたとしてもかえってよくない・・・・そうでしたから、「人間性」もまったく関係ないかもしれませんが、基本的には面接といっても各科目についての試験です。 で、大学の入試の面接でそういう面接をおこなう大学があったかというと、私はあまり知らないのですが、全国の大学を調べつくせばどこかにあるかもしれないし、今後、出てくる可能性もあるかもしれません・・が、その場合、「けんか」はしない方がいいでしょうけれども、「人間性」を見る試験ではないので、あまりにも「人間性」にこだわらない方がいいと思います。
    そもそも、「人間性」て何?  YMCAの「主事」がトンチンカンなことを言った時に、それは違うのじゃないかと思ったから正直に思ったことを口にすると「きみは人間性に問題がある」と認定され、トンチンカンな話でも「はい、はい」と同意して自分だけ好かれようとする人間のカスが「人間性がいい人間」ということですか? YMCA予備校の判断は、どうも、そうみたいでしたが、大学の入試の面接でそういう判断をしているのかどうか・・・。 そういう判断をしている大学なら、あまり、高く評価できる大学ではありませんね。

    かつ、京大や東大のように、入学試験に面接や論文・小論文がない学科だけの大学では、「人間性」なんて見てないと思いますよ。
    今は昔、1980年代後半。 新聞のスポーツ欄で見た話ですが、南海ホークスがなくなる直前、南海の最後の監督だった杉浦忠が、「どんなに人間性のいい選手でも、成果を出せない選手は要りません」と言ったというのです。 野球選手である以上、「人間性がいい」選手ではなく、野球で成果を出せる選手を使うのは当然だと。 別の見方をすると、野球選手にとって、良い「人間性」とは何かというと、野球で成果を出せるような性格・人間性が野球選手にとって、「いい人間性」だと。
   小堀住研(株)〔⇒エス・バイ・エル(株)⇒ヤマダ エスバイエルホーム(株)〕にいた時、副社長Kが「数字は人格」と言ったという話を研修で聞かせてもらいました。 千葉支店の支店長のWが女性社員の尻をなでまわしたりしており、人事部長の高田が「支店長なんだから、尻くらいなでたってかまわないはずだ。 それをいかんと言う人間がいかん。支店長が女性社員の尻をなでまわしたのがいかんなどという従業員の方こそ、会社として絶対に許すわけにいかん!」などと言っていましたが、副社長Kは人事部長の高田が発言した「ヒラの人間ならいかんということもあるかもしれんけれども、支店長である以上、女性社員の尻をさわるくらいかまわないはずだ」のような意味で「数字は人格」と言ったのではないと聞きました。 「数字は人格」とは、営業の仕事で「良い人格」とは、営業の仕事で成果を出せる人格のことだ、ということでしょう。 「人間性がいいから」とか「人格がいいから」と言っても、その仕事で成果が出せなければ、そんな「人格」はその仕事には価値はない。 その仕事で成果をだせる人格がその仕事にとってはいい人格なんだ、という意味で「数字は人格」と言っていたようです。
   大学入試の場合、入学試験で良い成績を残せた者が「人格者」と認定されるわけではありませんが、入試にとってよい性格とは、試験で合格最低点より高い点数をとることができる「人間性」が「入試にとってよい人間性」だということになるでしょう。 YMCAの「主事」がいうことがおかしいと気づくことができない人が「人間性がいい」として合格させてもらえるのではないはずです。

    そもそも、自分が話した筋が通らない話に、それはおかしいと思ったから質問すれば説明してもらえるだろうと思って質問すると、「きみも人間性に問題がある」と悪口雑言を浴びせて、「人間性の悪いやつは落ちるんだ」と呪いの言葉を発する、というそういう人間は「人間性」がいいのか? そっちの方が「人間性に問題がある」のと違うのか? と思っていたら、人の話は思わぬ所まで伝わるようで、YMCA予備校とまったく関係のない人、高槻市の在住でも勤務でもない人から、「なんか、YMCA予備校の高槻の主事って、けったいな嫌なヤツらしいなあ」という話を聞きました。 私と同じことを思った人間がいて、人に話し、それが伝わっていったようです。 去年の生徒の悪口を今年の生徒に言い、今年の生徒の悪口を来年の人間に言い、来年の生徒の悪口を再来年の生徒に言い・・ということをやらないとおれない人間性は、たとえ、キリスト教会が「敬虔なクリスチャン」と献金と引き換えで認定しても、一般人からは評価されないようでした。


【7】 大学・学部の選択はカネを出す者に権利があるのか。
   YMCA予備校の「主事」という藤井が、私に「きみのように逆らう人間は会社員は無理だから経済学部に行ってはならない」と決めつけ、さらに、私が知らない所で私の親に電話して同じことを言ったらしく、母は「先生に逆らうなんて」などと言って嘆きだしたのです。 卑劣な男です。 私は、「あの男は『先生』じゃないよ。『先生』というのは自分がその科目を学んで人に教えるレベルまで達して、英語とか国語とか日本史とか世界史とか教える人のことを『先生』というので、藤井なんて男はそういう勉強をしてきてないし、英語も国語も日本史も世界史も教える能力なんてない人で、京大も東大も出てない人なんだから、あの男を『先生』と考えないで」と言ったのですが、「クリスチャン」とか言うヤツに言われた方を信じるようで、まがりなりにもその地域で一番の高校を卒業して、ともかく旧帝大系国立大学を狙えるところまで勉強してきた私の言うことはきかずに、「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と1日最低3回は言わないと気がすまない学歴詐称の男の言うことをきいていました。 さらに、「きみも人間性に問題があるから試験に落ちる」と呪詛までおこなったのですから、いったいYMCA予備校は、予備校と言えるのか?!? ということになりますが、なぜ、彼が私に「文学的素養がない」だの「人間性に問題がある」だの言いまくったかというと、彼が「文学的素養がないから京大の文学部には通らなかったんだ」「人間性に問題があるヤツは京大には通らないんだ」とか悪口雑言を浴びせた女子学生について、藤井が言っていることの方が筋が通らないので、「それは違うのじゃないですか」と、別に「逆らう」つもりなどなく、それは違うと思ったから、それは違うのじゃないですかと言えば、こういうことがあるからと納得のいく説明をしてくれるものかと思って言ったのですが、藤井としては、自分の悪口雑言を認めてもらえなかったと思って、今度はこちらに「きみも人間性に問題がある」とか言い出したようでした。
   しかし、藤井が私に対して、「きみのような上役に逆らう人間は会社員としては絶対にやっていけないから経済学部には行ってはだめだ」だの「きみも人間性に問題があるから」だのと言ったのは、それだけでが理由ではないようで、他にもあったようです。「きみのような上役に逆らう人間は会社員としては絶対にやっていけないから」とか言うのですが、そもそも、おまえ、いったい、いつから俺の上役になったんだよ!?! てことになります。カネ払ってるのはこちらなんです。 YMCA予備校が受講生にカネ払ってるのではなく、受講生の側がYMCA予備校にカネを払っているのであって、YMCA予備校の職員は「上役」ではないのです。 何が、「きみのような上役に逆らうヤツは会社員としてやっていけないから経済学部は絶対に受けてはだめだ」でしょうか。 で、これは私が思ったことで、口に出して言ったことはないはずなのですが、藤井は言われていると思ったらしく、「きみらがカネ出してるのと違う。 親がカネだしてるんだ。 勘違いしてはいかん。 YMCAはきみらからは1円もカネはもらってない」と言うのです。 私が親の立場なら、そんなことを言う予備校に行かせたくないですね。 親は、息子・娘の役に立ってもらうために予備校にカネを払っているのであって、親をだまし込むことで息子・娘を攻撃してもらうためにカネを払っているのではないはずですから。
   但し、私の父などは、YMCA予備校の「主事」の藤井から、「YMCAは、きみらの親からカネをもらっているのであって、きみらからは1円としてカネはもらってない」と言われて喜んでいたようです。 「ええこと言いはる。 親がカネはらっとるんじゃ。 ええこと言いはる」と言って喜んでいたのです。 「カネを出す者に権利があるんじゃ。だから、大学をどうするかはわしに決める権利があるんじゃ。わしの権利じゃ、わしの権利じゃ」と言っていました。 しかし、カネを親が出すとしても、小学校の1年からずっと勉強してきたのは私じゃないですか。 父が勉強してきたのと違うはずなんです・・・が、父が言うには、「親に産んでもらった体が勉強したんじゃ。 誰が産んだと思っとるんじゃ。 母親が産んだのと違うんやぞ。勘違いするなよ。女は単なる畑じゃ。 畑に種を植えてやってやってやっていただいてくださってあげてあげてやってやってあげていただいてくださってやってやってやってあげてやってやった者のおかげで生まれることができたんじゃ。 それで、産まれたら、育てるのは畑の仕事じゃ。 子供は女が育てるもんじゃ。 勘違いするなよ。 心得違いをするなよ。 大根でもキュウリでも茄子でもそうやろ。 種を植えてくださってやってやってあげていただいてくださってやってやってやってやったった方のおかげで芽を出すことができたのであって、芽を出したらそこから育てるのは畑の仕事でやなあ。 それで、実がなるようになったら、種を植えたものに権利があるんじゃ。 畑に権利があるのと違うんじゃ。 ましてや、キュウリや茄子に権利があるわけがない。 わかったか。考え違いをおこすなよ、チャンコロ! ええか、わかっとるか、チャンコロ! チャンコロ!」と言っていました。 
   日本軍国主義の亡霊のような学部、「会社のためにとってちってたあ〜あ!」の経済学部なんかに行かされるくらいなら、大学なんか行きたくもない。そんな学部に行かされるのが嫌だから他の同級生が遊んでいる時も勉強してきたのに、大学に行く時になると、「わしの権利じゃ、わしの権利じゃ。てってこっこてってて〜い♪ てってこっこてっててえ〜い♪」という話になって、YMCAはそれに加担することで親を味方につけようとしたのです。
   (2015.11.22.)


   YMCA予備校の嘘はまだまだ、大量にあります。 次回、 【7】  「地方」の受験生は「根性がある」か?  「地方」の受験生は「泥臭い答案」を書くのか?  「地方」の受験生は模擬試験の成績が悪くても本番の試験では「根性」を発揮するか? を述べます。


☆ YMCA予備校の間違い
1.「特高右翼」YMCA高槻による思想調査 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_7.html
2.パチンコを勧める予備校。 聖書を奪い取る「敬虔なクリスチャン」 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_8.html
3.「通った人8人、落ちた人2人の成績」を取らないと受けてはならないか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_9.html
4.1つの模擬試験はどこにも通じるか、「弱者の戦術」たる「戦力の集中」か? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_10.html
5.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(上) http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_11.html
6.「文学的素養がない人間」・「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下) 〔今回〕
7.「地方の受験生は根性がある」か? 受験生に嘘情報を吹き込む予備校 http://tetsukenrumba.at.webry.info/201511/article_13.html
8.英文はいちいち日本語に訳して書くべきか? http://tetsukenrumba.at.webry.info/201512/article_1.html


元気が出る教育の話―学校・世の中・自分 (中公新書 655)
中央公論新社
斎藤 次郎

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 元気が出る教育の話―学校・世の中・自分 (中公新書 655) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「文学的素養がない人間」「人間性に問題がある人間」は落ちるか(下)―YMCA予備校の間違い≪6≫  哲建ルンバ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる